哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

戦争責任は次世代にも責任はあるか(サンデル教授の日本版白熱教室の検討)

ハーバード大学の政治哲学のマイケル・サンデル教授がテレビ等で有名になりました。私自身も、ハーバードの授業の放送から見まして、興味を持ち様々な人と議論をしてきたところであります。サンデル氏が来日し、東京大学で、日本版白熱教室が開催されることとなり、テレビで見ておりました。しかし、この日本版は少し残念な内容だったという批判はおいておきまして、その中でサンデル氏が問いかけたある論題について、今回は、検討をしてみたいと思います。

 
論題は「戦争責任は次世代にも責任はあるか」です。
 
これは、個人レベルと、共同体レベルとを分けて考える必要性があります。
一緒に考えることは、危険です。
つまり、個人レベルでは責任はないと思いますが、共同体レベルでは責任があるというこたえになるからです。

そもそも、戦争等について、過去の過ちを犯したのは、共同体レベルであり、過去の遂行者なわけです。そのことから、当然に現在の個人には、何の責任もないです。以下、説明を加えたいと思います。

まず、個人レベルについて、過去の人物と、現在の人物とは、全く違う人物・存在なわけです。なので、そこに責任があるというときには、広い意味での共同体的(国家規模から、親と子といった家族社会までを含む)な考え方等の説明に根拠を求めざるを得ません。つまり、同じ共同体にある者としての責任というわけです。そこが、唯一の過去とのつながりです。

しかし、そのつながりを根拠に責任を求めることは、適当と思えません。我々は、国も、家も選んで生まれこれるわけではなく、過去に誤りを犯した人物と同じ考え方をもって生まれてくるわけでもありません。国家というレベル、家族というレベルで、その共同体内の人々が現在過去問わず、全てにおいて同じ考え方であるなんてことは、通常あり得ないわけです。よって、そこに責任を押し付けることは、酷でしかありませんし、すべきではありません。

また「歴史は連続しているから、過去の問題ではない」という批判に関しては、過去の過ちが、今なお続いている(進行形である)というなら、そこに連続性がある可能性はあるでしょうが、過去の過ちが過ちとして、反省されている上であれば、それは、過去の過ちの歴史とは「断絶・革命」ができているわけです。学問では、トマス・クーンがパラダイム・シフトとして「連続でない」としていますが、このような責任の問題についても、同じく言えることと思います。

過去を反省した新しい考え方が出来上がっている状態で、その個人に何の責任があるというのでしょう。その個人は、現在の時代に、その共同体に存在しているだけです。そういった個人に責任があるとするのは、不適当です。
 
「戦争の責任を、当時の人々が亡くなっても、その子孫、そのまた子孫達も責任を負わなければならないのか?」についてですが、これは、共同体レベルでの話です。個人レベルにおいては、上記のようなことが妥当しますが、共同体レベルにおいては、そこに歴史的な断絶性を見出せません。そこの構成員は変わるにせよ、共同体はそのままであって、単に運用が変わったに過ぎないからです。

共同体の行いは、共同体が存在し続ける以上、それが一つの歴史となるわけですが、個人の場合は一生が歴史であって、現在の個人は、過去の世代のことについて責任がないと言えるわけですが、共同体レベルでは、それが言えません。共同体の形式が変わったとは言っても、それは単に、過ちに反省があったから改められた等としか言えないからです。

共同体の死・共同体で責任がなくなるというのは、例えば、かつての大帝国の崩壊のような、相対的な人々の大移動、共同体の分裂化、文化等との脱却等のような大きな過程を経ることを意味します。そうでなければ、一つの共同体として、存続されてしまうわけです。単に、共同体の法が大幅に変わった、共同体の考え方(体制)が変わったというレベルでは、それは、その共同体の歴史的過程の一つにすぎないわけであるので、共同体レベルでは、責任があるわけです。

つまり総じて、責任の断続性があるかどうかがポイントになろうかと思料する次第です。戦争などに関して言えば、国家のレベルにおいて、責任があるわけであり、個人のレベルにおいては、責任があるはずがないわけなのです。