哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

保証人というしくみ ―時代遅れの慣習に言うべきこと―

保証人というしくみが世の中にはある。法的に言えば、人的保証と言われるものである。
2020年施行の新「民法」制定にあたっても、その改廃が様々議論されたようであるが、結局、残ったしくみである。内容が厳しくなったと言われるものの、極度額を設ける等の程度のところへと落ち着きをみせたにすぎない

私は、この保証人というしくみについて、その無意味さ、非現実性、すごく酷であるということから、大いに疑問がある。いや、こう感じているのは、私だけではないだろう。多くの方がそう思っていることだろう。しかし、これといった社会的関心が出されなかったことで、のうのうと制度が存在し続けている。よって、今、その保証人制度を考えておきたい。
 
まず、このしくみがおかしいのは、以下の3つが挙げられると思慮する。
第一に、保証人といっても、現実に求められるのは、その多くが連帯保証人であること。
第二に、これだけ社会が発展している中で、個人保証が時代遅れにきているということ。
 
第一について、家賃保証や借金の場合、まず連帯保証人が求められる。万が一の際には、本当にお金を求めていくぞ、といったケースでは、ほぼ連帯保証人であり、その選択権を我々は有しない。連帯保証人欄が一方的にあり、有無を言わせないわけである。つまり、法律自体が追いついていないともいえるが、金銭が絡むほとんどの契約では、連帯保証なのであって、人的保証と簡単に言うべきではないのである。

そもそも、純粋な保証人制度というのは、一応ここに名前を書いて下さいという形式的なものを除いてなく、ほぼ全てが連帯保証人で構成されている。このことを無視して、保証人の問題を考えることはナンセンスであり、法律は、連帯保証人について、それを前提として条文をさき、深く規定すべきであるが、現在は、人的保証の一ということで、並行的な問題の一側面という形でしか捉えられないことに、法的問題が存在し、現実離れしている。そして、ここに保証人制度が残り続けている面が存在する。

よって、現実の実態に即し、ここで述べる保証人とは、ほぼ連帯保証人と言う意味で、この人的保証制度を理解していく。
 
第二について、現代の日本は、社会が近代的に大きく発達し、交通網も情報網もあり、世界中がリアルタイムで分かり、繋がる時代である。そこでは、様々な仕組みが構築されている。複雑な社会システムが成り立ち、もはや一人の人間がその全てを理解することができないと言っていい時代にきている。

保証人制度について言えば、まず機関保証ができている。つまり人ではなく、会社等の法人が保証してくれるものである。例として、家賃保証会社等がある。これは所謂、保険のようなものであるが、保険と違うのは、保険が万が一の場合に、お金を払って終わりであるのに対し、機関保証は、原則お金を払ってはくれるが、その後、求償される(払った分を請求される)という点である。

こうした法人であれば、一般的な人よりも信頼性があると言える(ただ、倒産した家賃保証会社はある)ため、こうしたものに統一した方が良く、ほぼ人的保証は不要である。後は、与信をしっかり見ればいいのであり、この与信をしっかり判定できないから、そもそも保証人もという発想になるが、それは安易でしかない。

さらに、人的保証のあっせん会社も存在している。これは、機関保証のことではない。依頼すると保証人を探してくれるというものである。つまり、保証人をしたい人と、保証人を見つけられない人を、一定のお金を払うことで、結びつける会社。これも存在する(保証人をしたい人が、そんなにいるのかと疑問になるが)。保証人のあっせん会社が怪しいと言う話もあるが、頼める人がいない・迷惑を掛けたくないという場合、仕方なく、こういうところへ助けを求めるしかない。

又、あっせん会社だけでなく、あっせん人のような者も存在しているようである。こうした所が、適法にやっていれば問題ないが、中には違法入手した、又は、偽造された印鑑証明をつかまされるということにもなりかねず、そうした見極めは重要である。

つまり、社会の発展の中で、機関保証の発展、あっせん会社の発展が現実にある。そして、そうした発展から、それら独自の問題点・課題も出てきている。その中で、保証人という制度は、過去の共同体的な人と人との繋がり・交流・家族制度等を前提・基とするものであり、それから外れてしまった人にとっては、非常に酷な制度であって、現代的な制度では決してない。様々なことが自由に、横断的に行われる現代において、保証人制度は、そうした自由の大きな規制として、立ちはだかっているのが実態である。
 
第三について、第二の問題でお金を払って保証してくれるしくみを書いたが、そうした制度を利用する者には、費用を発生させる。しかし、保証人をみつけられる人には、お金の負担がない。これは、そもそも、平等な社会といえるだろうか。悪の制度としか言えないのではないか。社会的に「連帯保証人はなるな」というのは、よく知られた話でもある。つまり、言わずもがな、保証人を頼むというのは、普通は相当難しい。身内との関係もある。

例えば、兄弟が多い人は、頼みやすいだろう。親にも頼めるだろうか。しかし、多くの方は、その範囲外ではどうだろう。祖父や祖母、このあたりも、まあ、頼める範囲か。いとこや、その先の親戚。又は友人、恩師、知人、会社関係。ここまでいくと、さすがに声を掛けにくいと言うのが現状だろう。

つまり、これらは、そうした範囲に恵まれている人と、そうでない人とで、大きなギャップが生じているのである。こうした問題を生じさせているのが保証人というしくみである。頼むことに何ら骨も折る必要がない人(身内が多くいる人、頼むことに躊躇しない人)と、頼める人がいない人(身内がいない)に分かれ、それを左右するのは運命といっても過言ではない。

実際に、過去に私が勤務していた不動産管理会社では、連帯保証人が必須だったが、よく連帯保証人になってくれる人がいるな、と感心したものである。そのほとんどは身内(親や、配偶者の身内)であったが、こういう方がいない場合は審査が下りない。交渉してくる賃貸仲介会社もあるが、連帯保証人必須なので、いくら保証会社がOKしても機械的にダメである。こういう現実、制度設計者は理解しているのだろうか。連帯保証人を友人等に頼むと言うこと、これはお金を借りるよりも難しいのではないか。
 
また、最後に、事業資金についての保証の話をしておきたい。例えば「会社を立ち上げた」場合である。店舗でもいいが、最初は個人経営になるだろうか。事業を運営していくにあたり、大方はお金を借りることになる。事業資金として、経営者がその保証人になるというケースである。これも、2020年施行民法改正のテーマ出会ったと言われる。つぶれたら大変で、個人と違い、膨大な金額がその個人に請求される。そうしたものを、個人に負わせていいのか、ということが大きな議論としてある。

個人経営の工場の経営者が、資金が尽き、どうにもならずに首を括るドラマや、話。よくこういうストーリーで語られることがあるのは、こうした保証のケースが根幹にあることが多い。

ただ、これについては、経営者保証に関するガイドライン研究会(事務局:日本商工会議所全国銀行協会)が「経営者保証に関するガイドライン」等を公表し、法人と個人が明確に分離されている場合等は、経営者の個人保証を求めないこと、多額の個人保証を行っていても、早期に廃業等を決断した際は、一定の生活費等を残すこと等、保証債務の履行時に返済しきれない債務残額は、原則として免除すること等が定められている。
一つの問題意識から、ようやく重い腰を上げてきたかというところである。
 
さて、この保証人の問題、私は制度を廃止すべきだと思料している。つまり、原則禁止が望ましい。今回の2020年施行の民法では、極度額設定等のみという緩やかな規制のみで、これは、連帯保証の実態の一部分にしか目を向けていない非現実的な改正と言わざるを得ない。よって、一般法である民法で規制が難しいのであれば、特別法にて、規制を掛ける必要があるのではないかと思料する。

帯保証人必須の原則禁止(機関保証のみを認める、就職の際の連帯保証人といった不必要で不当な場合はそれを排除するしくみ)。機関保証の活用と、その法的枠組み作りを求めたい。