哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

結愛ちゃん虐待事件で考える

2018年のこと。虐待による、5歳児の死亡事件の件である。

改めて書くまでもないが、この事件、非常に胸が打たれるし、涙が出てくる。
元々、この子を知っていたわけでも何でもないのだが、なぜか、すごく悲しい。
まず、可愛い。だからと言って、悲しみを増すわけではないが、何とも無邪気である。

そして、手紙。
「ゆるしてください」「やくそくします」
こういう言葉を、まず書かせてはいけない。
もし、書かせても、その倍、愛情を注がなければならない。
しかし、結果、亡くなってしまった。
話によると、児童相談所等も動き、行政も分かっているのにも関わらず・・・。

「きょうよりかもっと あしたはできるようにするから」
こんなこと、ほとんどの大人すら出来ていない。
5歳の女の子に何をしろというのだろうか。残酷すぎる。


また、20ものルールがあったそうで、例えば
・「ふろをあらう」→お前がやれ。子供にさせるな。
・「いきがきれるまでうんどうする」→無駄なことをさせるな。学校行ってやればいい。
・「べんきょうする」→お前が出来ないことを押しつけるな。
と、突っ込みを入れたくなるような内容であり、精神的にキツイものがある。

これと、暴力、暴言、精神的圧力、食事も睡眠も満足に与えず、トイレも自由にさせない・・・と。
これでは、衰弱するのは当然で、体重も、内臓も小さかったとか。
これは、例えるならば、殺人事件で命乞いをしている相手を殺す行為に等しい。
むしろ、これはそれと同等以上かもしれない。
よって、私は虐待ではなく、命乞いをした者を力の強い者が殺す、殺人として厳罰に処すべきだと考えている。

そもそも、こういう虐待をされているにも関わらず、
2度も行政で保護。にも関わらず家に戻しているという情報もある。
子供の教育は家庭という話はあるが、全くの別問題である。
「2度も」あり得ないことが行われていたのである。
そして「2度」の後の行政の訪問時は、追い返されたそうであるが、
それは当たり前で、追い返さない殺人者・虐待者が、この世の中にいるのか。
いるわけはない。そんな常識外れで訪問して追い返される行為は、
もはや単なる形式的行為で、例えばこれが初回訪問で「抑止的意味」ならいざ知らず。
これでは、杓子定規的(実際何にもなっていないが)で、組織の存在意義がない。

私は、仏の顔も3度までというのもあるが、ある程度以降は、
強制的に親権を外し、親元から離す措置も必要ではないかと思料している。
そして、親には当然刑務所なり、それなりの自由束縛の施設に入ってもらい、
前科を付ける。自分の子であろうと、立派な人権侵害事案だからである。
人権侵害を放置することは、人権侵害を容認となり、国家としては許されない。
そうして、高校卒業まで進ませ、希望があれば大学卒業までさせる。

虐待と言う言葉が一人歩きするのがいけないのであって、
自分の子だからと罪が軽くなってはいけないのである。
なぜなら、殺す理由などはないのであって、単なる殺人だからである。
「言うことを聞かない」こんなの当たり前であり、嫌なら子供をつくるなという話である。

そもそも、子供から110番通報なり、親から離れたいを言うことは、まずできない。
子供は、親の存在を自分の存在と同義に見てしまうところがあるから
「家に帰りたい」となってしまう傾向にある。しかし、それを放置してはならない。
子供がそうなるのは「追い詰められて苦しんでいる」からである。
「助けて」を外部に言えない、自分で自分を規制してしまう。
これを助けるのは、法律であり、行政であるべきと私は思っている。
一定数、こういうどうしようもない親はいるのだから、それを理解すべきであり、
そこで犠牲になるのは、純粋無垢な幼い少年少女なのである。

是非、検討をお願いしたい。

最後に、今日、NHKのニュース9を見ていたら、
私と同じような悲しみを感じている人が、意外と結構多いことに気付いた。
事件の現場に花を手向けたり、手を合わせに遠くから来る人がどれほど多いか。
そして、心優しく、寄り添っているか。まだ日本も捨てたものではない、と少し嬉しくなった

かく言う私も、事件現場へ行き、手を合わせた。
こうしたことをしたのは、これまでではじめてである。