哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

「メディアが旧統一教会を取り上げるのは、山上容疑者の思惑通り」という誤りについて

本日、7月31日のTBS・サンデージャポンという番組は、旧統一教会の問題を取り上げていて、鈴木エイト氏、ひろゆき氏をはじめ、議論がされていた。

 

その中で、太田光氏が「今回の暗殺テロ(暴力)から、旧統一教会をメディアが取り上げることは、山上容疑者の思惑をなし崩し的に達成している事」みたいな意見を述べていた。

一見、これは、さも正しそうな見解と捉えられるかも知れない。

しかし、本当にそうだろうか。

 

山上容疑者は「母親が旧統一教会にのめり込み、破産や、実兄の自殺、家族崩壊に至ったことで、教団に激しい恨みを持った」という供述をしていることは、報道で明らかだろう。

つまり、 山上容疑者の犯行は、家族・家庭を失った怨念的自己満足的な犯行なのである。

それもそのはずだが、山上容疑者は、ジャーナリストでもないし、報道関係者でもない。ただの恨みを持った「悪」なのである。そこに、不正を正してやろうとか、不正を防がないといけないというようなものは、全くない。

もっと言えば、今回の犯行に、正義感は全くないのである。

 

そして、そもそも歴史的に見ても、民主主義の中、テロで共感されたことはないことも、事実だ。それは、多くのテロ事件を見ても明らかだろう。多くの世論は、テロに共感しないのである。

 

よって、太田光氏の意見はミスリードでしかない。メディアに出て、発言力のある人が、推測的にミスリードしてしまうのは、よくないことだ。

 

山上容疑者が「メディアの旧統一教会を追求」を目的に犯行に及んだわけではない。もし、そういう動機であれば、当然メディアも報道自粛するだろう。

 

しかし、今回の山上の犯行は、現在の供述でいくと、個人的な恨み晴らしで全く関係ないのである。簡単に考えれば、例えば、メディアが30年間ずっと報道し続けていたとしたら、山上は犯行に及ばなかったのかとすると、それは、山上の語る動機からあり得ない。彼の供述している動機は、恨みだからだ。

 

個人的に抱える恨みは、自分で解決しようとする。それをただ実現したまでのことに過ぎないだろう。ここに、正義感も何もない。相手がもし、旧統一教会のような団体ではなく、まともな団体でも、個人的に恨みを持てば同じようにしただろう。それは、自己満足に過ぎないからである。自らのモヤモヤ・怒りを解決する手段としての犯行だということだ。