哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

美味しんぼについて第二弾 ―追記文 『やっぱり水谷氏は正しい』―

 今回の美味しんぼの波紋の広がりの問題は、報道のあり方の難しさを教えてくれた一件だと思います。
 
 まず、科学的な事実は、分からない、ということです。つまり、症状が出ている人は、多かれ少なかれ実際に存在します。問題は、因果関係があるという主張も、因果関係がないという主張も、現在の科学のレベルでは、どちらとも判断できないので、どちらの主張が正しいということを主張しても、それは、いい加減な主張である、ということです。よって、本来は「自分の主張を持ちつつも、科学的には分かりません」というスタンスこそ、正しいのです。

 よって、作者がこういう症状がある、と描いたことに対し、権力がある一方の立場から異論を唱えるのは、表現の自由への侵害・挑戦です。

 現在の科学では解明できないものを政治的に利用して、苦しんでいる人の言葉を黙殺し、情報を色分けして、都合のいい情報だけを主張することは、とんでもない行為だと思います。そして、それを批判なくしてそのまま流すメディアの見識を疑います。
 
 今回の問題は、

第一に、数が少ない多いかは別として、原発事故に関連して、現に症状があり苦しんでいる人がいる、という状況があったことを取材して、作者がそれを描いたにもかかわらず、それが一切無かったのように報道していること。

第二に、原発事故に関連して症状が出ているというのは、100%その人の思いこみで、全く因果関係がない、という論調であること。

第三に、風評被害である、と言っていること。

第四に、一部の福島県民の意見を引用して「聞いたことがない」とか「被災地の復興を妨げる」とか「差別を生む」と、一方的で論理をすり替える意見を言っていること。

第五に、主要な政治家や県などの行政のトップが、因果関係があるかどうか、という医学界で論争のあるテーマに対し、ないとする一方の立場からそれを擁護し、批判を展開していること。

です。

 鼻血など、症状に対する因果関係があるかどうかなんて、現在の科学のレベルで分かるわけがない。あるかも知れないし、ないかもしれない。それをない、という政治的な論理を主張し、それが事実であるように言い、一つの言論を封殺することは、許されてはいけないことだと思います。
 分からない、という事実に基づいた上で、原発事故以来、症状が出ている人がいます、と。そして、症状が出ていない人がいます、と。「なぜでしょう、原発事故が原因かもしれません」と。これの何が問題でしょう。出ていない人が多数だから、出た人は稀であって、因果関係は100%ない、ということは、全然科学的ではありません。どのくらい影響があるのか、という確率的な問題であり、どのくらい身体に影響があるのか、という複雑系的な問題なのです。例えば、同じような生活をしていても、風邪をひく人もいれば、ひかない人もいます。病気になる人もいれば、ならない人もいる。なった人は、その生活は100%関係ない、と言えるでしょうか。そこに何か悪い原因があれば、多少は影響していると考えるでしょう。そういう、普通の感覚、それがなぜ、批判されるのか、私には、全く理解できません。例えば、数百年後、影響があると分かった時、誰が責任をとるのでしょうか。誰もとることはできないのです。取り返しのつかないことになっても、その時はもう遅いのであり、それを理解すべきだと思います。責任をとる、といい加減に言っている人に、どうやってとるのですか、それでリセットできるのですか、と言いたいです。
 又、復興を妨げると言いますが、なぜ、表現の自由を侵害していることは棚に上げて、妨げる、と主張するのでしょうか。現に、福島県放射性物質が残置していることは周知の事実でしょう。だから、除染しているわけですし、原発の安定化をしているわけです。そのことを隠し、安全、安全と言い聞かせて、復興できるのでしょうか。復興と言えるのでしょうか。そういうことをして福島県を復興したように見せかけても、本当の復興にはならないのではないでしょうか。隠して復興したんだと見せかけても、多くの人が心の中で、本当のことを理解しているでしょう。金銭面や精神面などの面で、そうしたくても出来ないことが世の中には多くあります。そういう人たちに対し、福島県のことを伝えようとした作者・その作品には、大きな意義があります。現に、福島県民とは、安全だと言っている・信じている人だけが県民なのではありません。作中に登場する人物のような方も福島県人であり、私は、そういう人こそ、福島県人なのだと思います。多くの人や強い論理に流されて、風評などと言う安全圏内にいる人よりも、批判されることを承知で、未来のために勇気を持って主張している人、そういう声に耳を傾けたいと私は思います。
 
 そして、福島の人に対して失礼だという報道もありますが、私はそうは思いません。なぜなら、福島県民全員が一つの見解で統一されているとは思わないからです。苦しんでいる人も多くいると思います。このマンガに対し、怒っている人もいると思います。そして、素晴らしいマンガだと思っている人もいると思います。県という政治レベルにおいて、自らの主張にそぐわない見解が発表されたので、大きな問題となっているのであり、民間レベルでは、何の問題もないものだと思います。むしろ、騒がれていること自体がおかしい現象だと思います。

 逆に、風評被害と騒ぐのは、苦しんでいる人に対し大変失礼なことだと思います。風評被害と言うのは、一般的にデマによる被害と認識されています。しかし、デマだという根拠はありません。根拠がないにもかかわらず、デマと決めつけることは、それこそ風評被害です。
 
以下『やっぱり水谷氏は正しい人だった』です。
 
 今回の件では、ダウンタウンの松本氏や、脳科学者の茂木健一郎氏、その他、様々な著名人が自らの主張を展開する中で、教育等評論家の水谷修氏も、意見を述べています。
 
 水谷氏は、小学館が「美味しんぼ」の連載を一時中止することを報道したこと、そして、産経新聞が未発売の週刊誌の内容を報道したことに対して、報道の絶対的自由と中立性を理由に意見を述べています。そして、打った喧嘩なら、最後まできちんと戦うべきとして、小学館に対し、強烈な意見を述べています。素晴らしいのは「私の夜回り先生の本と漫画の版権は、小学館に預けています。もし、これが事実ならば、それを回収します。そして、こんないい加減な会社の本を買わないように、不買運動を起こしたい。つぶしたい。そのぐらい、頭にきています」と、真の大きな怒りを表示していること。
 
 重要なことは、この回においては、水谷氏は、作者ではなく、小学館を批判しているということ。つまり、まず、産経になぜ未発売の週刊誌の内容が載るのか、ということ。報道は中立性であるべきなのに、なぜ、小学館は産経にリークするのか、ということ。これが第一。そして、小学館美味しんぼの連載を中止したことです。世の中に対し、一つの意見をぶつけたのであるから、それに対し、責任をもって最後までとことん戦え、ということです。一つだけ記事をだして、はいお終いでは、何のために意見をぶつけたのか、ということです。小学館は、すぐに世の中の動向云々ですぐに止めます、とするのは、言論媒体・表現媒体として、卑怯である、ということを言いたいのだと思います。

 私も、産経へのリークの可能性については、反論の文章を楽しみにしていた身として、非常に失礼なことだと思いました。しかし、事実の捉え方が水谷さんとは異なります。元々、作者はここで一区切りをつけたかったのだと思います。作者が体験した出来事を多くの人に、最後に漫画を通して伝えたかったのだと思います。但し、そもそも、作者にとって、又、小学館にとって「何でこんなに大きく批判報道されるのか」というのが第一の感じだったと思います。作者や小学館は、実際の確かな第一次の証人が存在する生の取材を基にしたものでもあり、誰かを名指しで悪口を言っているわけでもない、一般的な原発行政への批判であるので、何のこともないと思っていたと思います。まさか、こんなに社会に対し、大きな波紋を広げるとは思ってもいなかったでしょう。にもかかわらず、波紋が広がった。しかし、連載終了と言う予定はたっているから終了、ということだろうと思います。この原発記事の影響で終了と言うことなら、私も腹立たしい。しかし、前もって決まったいたことで、終了と言うのならもっと見たいけれども、話題となったにもかかわらず、残念だけれども、仕方ない、私はそう思います。
 そもそも、こういう社会を二分するような問題に対し、マンガ家と言う、有象無象の多くの人にマンガを読んでもらう職業では、ある主張を発表するのは、日本では難しいのが事実です。よって、本来は、こういう問題提起をする仕事は、漫画家にさせるべきではなく、報道に携わる者、学者、思想家、評論家、作家、政治家などがするべきなのです。しかし、残念なのは、そういう気概のある人がいないということ。大変残念です。
 
 私は、水谷氏が素晴らしいと思うのは、自らの書籍を出版し、お世話になっている出版社であるにもかかわらず、許されないこと・正義に反することに対しては、例えお世話になっているところ(身内)であっても、正義を優先させるという気概です。そういう気概を持っている人、世の中にどのくらいいるのでしょうか。私は、改めて尊敬の念を持ちました。