哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

山上容疑者への過度な同情への疑問

概略

世の中には、素直な人も多いようだ。よって、裏を返せば、騙される人も多いということになる。しかし、実際、そんなに甘くはない。

 

あの山上容疑者に、減刑の署名がネットで求められているという。私からすると、あり得ないことだ。なぜなら、今回の犯行に同情の余地は全くなく、人としてのラインを越した容疑者には、それなりの刑罰が必要だと考えるからだ。

 

それは、今回の事件は、あってはならない事件だということ。

理由

一つ目は、自らの意見が通らなかった場合には、犯罪をも選択肢とするのは、民主主義の否定だということ。意見は自由だが、決まったことには従うのがルールだ。自分の考えを他人に強制することは出来ない。その最たるものが暴力・犯罪・テロだ。しかも国政選挙中。国政選挙は、民主主義の根幹であり、ここが脅かされると、立候補が難しくなるし、政治活動も難しくなるし、表現も難しくなる。だから、一番あってはならない状況なのである。よって、この侵害に対しては、強い態度で望まなければならないし、それはどんな異なる意見があったとしても、断固として、民主主義を揺るがす悪から守る必要があるのである。

 

二つ目は、教団と安倍元首相との関係で、安倍元首相が殺害の的になるほど深い付き合いとは言えないのに、犯行が行われたという、自分勝手な解釈での犯行だということだ。政治家と宗教との関わりなんて、たかが知れている。報道でもある通り、政治家は応援してくれる人・法人に対し、大切に扱う。ただ、それだけである。政治家が宗教の教義を決めるわけではないし、活動を決めるわけではない。又、安倍元首相以上に深く付き合いのある人や、同程度付き合いのある人は、数多くいるだろう。

 

三つ目は、第三者被害も想定され得る銃の使用だ。そもそも、はじめは爆弾も考えていたというような奴なので、周りの人のことは、全然考えていないと明らかだ。散弾式の銃ということで、今回、他に被害者がいなかったのは、偶然中の偶然だ。選挙カー等が被弾していたというのだから、他に被害者がいても、全然おかしなことでは全くない。安倍元首相だけ狙ったわけではなく、他が巻き添えになっても仕方ないというような、凶悪犯と言えよう。

考察

そして、なぜ、素直な人は、同情するのかということだ。山上容疑者は「教会に恨みが・・・」と言う。

これを素直な人は「旧統一教会、酷いもんなー」「子供の頃にああいう状況になったら、病んじゃうよね」等と、真に受けてしまうのだ。

しかし、これは、大きな誤解と考える。

 

確かに、山上の学生や子供の頃(被害の頃)の犯罪なら、そういう所は大きいだろうし、そう考えることもできる。しかし、山上が社会に出てから何年経っているのか。兄が亡くなってどのくらい経っているのか。その間、仕事も長かっただろうに。報道では、その間に自殺未遂等して等というのもあり、相当大変な時期だったことは察することができる。しかし、重要なことは、その時は、それまでだったのである。結局は、彼はその時は何もしていないのである。

 

そして、まともであれば、仕事に出てから考えれば分かることだが、家族が破産させられたといっても、山上は、その家族の子供だ。山上の家族がどれだけのお金を保有していたか知らないが、山上は、単なる子供である。成人し、時間が経っているのだから、そこから抜け出すことは、十分見込めた。しかし、山上は、そうしなかった。そもそも、その破産させられたお金も、山上の物ではない。母親が好んで献金した、母親のお金であり、1円たりとも、山上のお金ではない。それは、成人したのだから、自分で独立し、自分で稼ぐべきだろう。しかし、山上はそうしなかった。尚、母親はまだ健在だ。

 

そして、問題は、その人間が、なぜ今なのかということだ。40過ぎの人間である。要するに、大半は、自己満足で計画したものの充足だったのではないかと考える。つまり、過去に恨みがあった。それは確実だろう。それを引き摺り、成人した。成人したその後もそれを引き摺り、自分で(自分だけで)事を解決しようとした。様々やろうとしたが、うまくいかず、ついに犯罪行為を思い至った。それを実行すべく、日夜研究を積み重ね、遂に実行したのであろう。途中、止めるようなタイミングを自ら、なくして。執念深い男なので、計画を諦めきれなかったのであろう。色々計画変更している。それも又、凶悪である。執念深いので、万一、出てきた場合の再犯も気にかかる(なにせ、目的は安倍元首相ではなく、教団というのだから、彼の真の目的達成とは言えないのではないか)。

 

こういう男に、どういう同情の余地があるというのだろうか。辛い人は沢山いる。苦しい人は沢山いる。しかし、こういう犯罪に手を染めるのは、一部だ。我々は、我々のルールによって、その一部の一線を越えた者には、刑罰を科すこととしている。それは、我々人間が、人間としてのルールを破ったときは、我々人間と同じ中に置いておくことが出来ないというルールである。これがあるからこそ、我々は、他の動物と異なる性質をもつ。それは、人を殺すことはあってはならないということである。

 

どんなに辛くても苦しくても、許されないことがあるのである。民主主義の破壊が一番許されない。それが社会というものなのである。

まとめ

そもそも、山上容疑者に、0.1ミリも同情の余地がない。

 

①被害者は教会を応援しただけの政治家。

→教会関係者には直接、何も加害していない一方、応援という超間接的な行動だけで、命を狙う理不尽さ。

②被害時から経過し42歳。

→精神的・経済的にも独立すべき者で、かつ、恨みを犯罪で解決してはいけないことを理解すべき年齢。

③銃の使用。

→自己満足実現のために手段を選ばない常軌を逸した無法者の思考。違法行為を全く躊躇しない自己中心的な姿勢。

④流れ弾を無視。

選挙カーに弾痕。他者の被害も十分あり得た状況で犯行。

⑤選挙中。

→無防備な中での卑劣で汚い犯行。民主主義を踏みにじり恐怖に陥れた最悪の行為。

 

加害者の心情を考え「かわいそうだ」「不憫だ」と。

しかし、犯罪をしない人の中に多く「かわいそうだ」「不憫だ」そういう人が山ほどいるだろう。

擁護する人々には、それが山上容疑者で本当に良いのか、ということを冷静に考えてほしいものである。