哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

「社会的に生み出す」と言う論理で捉えることの諸刃の剣

ある本を読んでいたら、とても極端な論理だなと思ったものが展開されていました。
著者自身は、自らの体験への自戒等をこめて記したのかもしれませんが、もし、こういう論理が社会の中にあるのだとすると、そこは書いておかないといけないな、ということで、書かせてもらうこととしました。
 
はじめに言っておきますが、ある限定した使い方で書いているのだろうということは、私には理解できます。しかし、この一文を短絡的に捉えると、そういう見方はできず、誤解を与えるであろうことも、またあるだろうということで、のせることとしました。
 
長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書・2007年)での一節です。
 
この本自体、言葉だけでなく、司法の様々な面を学べる、
とても良い作品で、是非、法学部生に勧めたい本の一冊です。
そこに、一つの文章を見つけました。
 
「経済的・時間的資源を食いつぶすだけで、社会的には何も生み出していない存在です。その後ろめたさと将来への不安から、精神を害してしまうケースもあります。」
 
指しているのは、司法浪人です。
私は、司法浪人ではないですが、このような言葉で批判する気は毛頭なく、反発をおぼえます。
因みに、発端は、1998年の参議院法務委員会で「司法試験の長期受験者」が議題になり、当時の受験者中、2707人が15年以上チャレンジした人で占めたことから、法務省の官房長が「人生を空費してしまわないよう、続けるかどうか、有用な情報を提供する」と事実上の「受験やめなさい」勧告を受け、その1年後、当時官房長の自宅に、矢が撃ち込まれる事件が発生したというもので、逮捕されたのが、妄想性人格障害で通院中の司法浪人の35歳ということでした。
 
よくよく考えると、社会的に何かを生み出すということは、諸刃の剣で、一般的に、普通に人が他人に対して使うような言葉ではないように思えます。最近では、LGBTの方々への「生産性がない」という、言葉もありましたが、こういうニュアンスの言葉は、そういう人々だけでなく、社会・一般的に、短絡的に使えるようなことばではないということが、考えてみると分かります。
 
司法浪人の方の話に戻ると、司法浪人の定義には色々あります。アルバイトや正社員をしながら勉強している人、家に引きこもって勉強だけしている人。そして、どのくらい勉強しているかもあるでしょう。どうやって勉強しているかも、どういう計画を立てているかも。
この本では、具体的な定義は出てきませんが、どういう状態にせよ、短絡的な上記の一文では、誤解を与えることとなります。つまり「司法試験の勉強を長くやることが悪い」というのは本質ではないからです。別の所に本質があるはずなのです。つまり、他のことができるひきこもりで、親のお金を使っているとか、そういう部分であるはずなのです。それを、司法試験のせいにされるのは、まあ、司法試験自体は人ではないのですが、司法試験にとって、大きな心外だと思います。
 
そして、生産性に関してですが、全く後ろめたくないと思っています。社会に大きな害を与えない人間を一人生み出している、ということです。社会にとんでもない害を与え、それでいて後ろめたさもなく、のうのうと生きている多くの人々より、何十倍も何百倍もましだと、私は思います。
 
その例を挙げろと言われれば、キリがないですよね。
地球環境の破壊を膨大に続けている国々の代表者、無実の罪で服役することになった被害者の捜査担当者・制度、犯罪被害を受けているのにその犯罪者を不当に不起訴にした検察官・制度(最近の事件でしょうか。もしかすると、仕方ないのかもしれませんが、人権尊重を十二分に勘案してもらいたいですね)、無策で国と地方の借金を無尽蔵に増やしてきた政府・地方、不当なことで税金を食いつぶす役人、部下を虐げて自分ばかりが富んでいき従業員や消費者にほとんど還元しない経営者・経営幹部等々、その他多くの凶悪犯罪者や迷惑者、不当要求者等。
 
そして何より、批判する者には、こう言ってやれば良いと思っています。
又、心の中で、こう思っていれば良いと思っています。
「ロボットでも出来そうな一番の単純労働を、それまでの繋ぎとして、しかるに人間の寿命から永遠にしていくであろうことで過ごすつまらない人生に支配されていることを、信心深く、深く深く信じているドM思想家の君らより、根強く勉強してその先へ行こうとする開拓者の方が、よっぽどましだ。君らは、それによって何かを生み出しているのではなく、代わりはいくらでもいる単なる機械の代わりに過ぎず、これしかできないからやっているだけで、生み出そうという意思ではない。よって、君らはまた生産者でもなく、生産者の振りをした、詐欺的消費専門者でしかない。そういう者である君らに、何これを言われる筋合いはないし、民主主義国家なので言うことに問題はないが、的外れであることを、その偏った支配された奴隷的思考の隅々まで使って知るべきであろう。」と。
 
かくいう私も、その「君ら」のようですが、決して「君ら」ではありません。
それを画するものは、自分と異なるものの、しっかり努力している人々を、非生産者なり、社会に何も生み出していないなりと批判する思考があるか否かだと考えます。
何かを目指していなくても、コツコツ勉強していなくても、仕事を真面目にコツコツやっている方々は多くいます。しかし、自分と異なる努力をする者を、非生産者だ等と、批判することで、その人は「君ら」にであったことが浮き出てくるのです。
 
どんな形であれ、共通しているのは「努力」です。
その努力を無視して「非生産者」等と批判することは、的外れも良い所です。
批判者が努力している人なら、その人自身をも。批判者が努力していない人なら、むしろ批判されるべきは批判者自身であって、単なる負け犬の遠吠えとなるでしょう。
 
尚、この文の最後には「夢を『あきらめない』ことなんか簡単、『あきらめる』ほうが数段キツいものです。」とあります。
私は、この一文に疑問を持ちますが、もしかすると、深いのかもしれません。