哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

こども園(幼稚園・保育園)の送迎バスにおける置き去り事故防止の対策について

はじめに

私は「この種の事故があってはならない」「幼稚園がこのレベルであってはならない」という問題意識の基で書いております。このレベルではいけないし、二度と起こしてはならないのです。そして、もし、この種の事故が個人レベル・園レベルで解決できないならば、地方公共団体・政府が対策を示すべきだと思います。

 

そういうした問題意識から、ここで後に記している対策については、私の危機管理・リスクマネジメントに関する学問的研究の成果と言ってもよいものになっていると自負しております。よって、国や地方公共団体の政策決定担当者や、保育園・幼稚園の先生方・経営者様、年齢の低いお子様をお持ちの保護者様にも、是非知ってほしいと思っております。

 

では、概要から参らせて頂きます。

概要

9月8日、とんでもない事故が飛び込んできました。

 

静岡県牧之原市静波の認定こども園「川崎幼稚園」で、3歳の女児が送迎バスに置き去りにされ、死亡したのです。

 

では、この原因は何でしょうか。下記、静岡朝日テレビの報道を引用させて頂きます(尚「→」は、筆者の指摘・批判部分です)

 

ここから

【速報】「4つのミスがあった」…認定こども園の会見 送迎バス置き去り死事件 静岡・牧之原市(静岡朝日テレビ) - Yahoo!ニュース

配信

園が7日午後3時から会見を開き、事故に至った原因について、以下の説明をしました。 ①バス下車時に乗車名簿と下車する子どもを照合する決まりが伝えられていなかった。

→数だけ出来れば良いんですよ。それ、出来ませんかね。

②園児がバスに取り残されていないかダブルチェックする態勢になっていなかった。

→たった6人、ダブルチェック以前に「しっかりして下さいよ」と言いたいです。

③クラス補助が登園情報を確認できていなかった。

→「あれ?」と何か感じたら、それを他の人に確認し、全員が真剣に考える風土はあったでしょうか。しかし、今回は、その前に大きな問題があったと解されます。

④登園するはずの園児がいなかったにもかかわらず、保護者に問い合わせしなかった。

→たった6人です。乗車名簿で、確認できない事務でしょうか。「登園するはずなのにいない」というよりも「乗車したのにいない」ということの方が重大です。それは、最低限確認すべきです。

ここまで

 

問題提起と批判

私は、今回の問題は、ミスと言えるものではなく、当然に果たすべきことを果たしていないというふうに捉えております。ここでは、その理由も合わせて書いていきたいと思います。

 

なぜなら、第一に、大人2人がバスにいて子供6人とされていますが、人数として大人の数は十分であり、少ないことはないです。過失は大きいと思います。第二に、たった6人ですから、入車名簿を付けていて、6人ということだけの情報で「あれっ」と気付くはずです。これも過失が大きいと思います。第三に、5時間も誰も気付かなかったというのも問題です。一人が上げた声を、全員が真剣に考える土壌が園にあったかどうかです。園の体制そのものが問われます。

 

当然果たすべきこと・当たり前のこととは、第一に確認をする。第二に真剣に事にあたる。第三に、命を預かる上での疑問が生じたら、それを優先して全員が真剣に考える(他のそうでない事柄よりもより高いレベルとする)。これらが、不十分であったと言わざるを得ません。

乗車時に出欠を取り、降車後に出欠を取ることだけでも防げたことです。出欠確認を、この園ではどうしているのでしょう。そして、欠の場合に、それを都合良く解釈してしまうような土壌があるのでしょうか。それが今回の事故を生じさせていると考えます。

広大な敷地を探すのではなく、バスという密室を確認するだけなのです。これだけの労力もしないのは、もはや、園の資格すらないと個人的には感じざるを得ません。

園は会見で、バスに同乗した大人が「慣れていなかった」というようなことを言っていましたが、社内で子供と会話もなかったのでしょうか。沢山、会話して下さい、6人だけ、自然と分かりますから。こういうことがあると、逆に、他の安全性も心配になってしまいます。

 

そして、昨年同様の事故が別の園であったことが報道されましたが、昨年の反省を全国の園が点検という形でして、兜の緒を締めていれば、防ぐことができたとも思います。この教訓が活かされず、プロ意識の欠如で最悪の事態を生じさせた責任は、人の命である以上、大きいものがあります。

 

私の対策案

ー多重防護でこの種の事故から10000%絶対に守るー

一方で、世の中には、起き得るミスであるという論も展開されております。ここからが対策の本題です。私は、ミスではなく、当然のことを当然にしていないあり得ないことだと考えておりますが、100歩譲ってあり得るミスだとしましょう。

では、そのミスを防止するためには、どういう手段があるでしょうか。私の個人的に考える対策は、以下となります。

多重の防護で、守るものです。

 

第一の壁:降車後に確認をする(車内チェック)。

第二の壁:乗車時に記録をつける(降車時に人数だけでも照らし合わせ確認)。

第三の壁:出欠確認をする(最低、降車時と園内で1回ずつ出席確認)

第四の壁:日中には、送迎バスのドアを常時開放しておく。

第五の壁:機械警備を導入する(ビル管理で主に施錠後のセキュリティーとして導入されているセンサーを、送迎バスに導入し、施錠と同時に自動的に作動させる。又、定刻までに作動させない場合の自動警報アラーム設定も重要。警備会社や園の事務所で管理し、異常時に駆け付ける)。

第六の壁:運転手がバス内で常時待機している状態にする(バス内を業務する場所に)。

他①:靴を預かり車内土足禁止ルールを設ける。

他②:園での出欠確認で欠の場合には、必ず車内カメラで乗車していないことを確認する。

他③:セキュリティーカード等を子供に持たせ、バス乗車の際にかざして乗車をコンピューター管理する。そして、園の出欠確認に活かす。

他④:園児に置き去り・閉じ込め発生時の訓練をする(クラクションを鳴らす訓練等)。

 

上記を整理すると、以下のように、主に、①人の管理、②システム・組織体制での管理、③機械での管理に分けられます。よって、これらを組み合わせることが望ましいと考えます。

・人の管理の例

 第一の壁、第二の壁、第三の壁

・システム・組織体制での管理の例

 第四の壁、第六の壁、他①、他②、他③、他④

・機械での管理の例

 第五の壁

 

これら送迎バスの置き去り対策として、例えば「車内置き去り防止対策導入車」等として、一定の対策に導入により、国や地方公共団体が認定し、送迎バスにステッカーを貼れる等すれば、保護者は、それに基づいて安全・安心を重視している園を選べることになります。よって、こういう取組みは、導入の易難を侃々諤々議論しつつ、今後重要になってほしいと思います。問題はどこまでやるか、どこまで本気になるかにかかっていると言えます。

 

※尚、今回の園のように、単なるアプリ管理では、機械による管理とは言えません。人による管理でしかないからです。これは、あくまで一定の人が入力して、一定の人が確認するものだからです。なので、勘違いとして「失念した」や「大丈夫だと思った」の言い訳が当然に予想されることになります。

しかし、対策で言う「機械による管理」とは、一定の設定のもとで、一定の事が、一定の時間までに行われない場合には、警報アラームが鳴り、一定の事がされるまで、それを要求するものです。なので、機械が忘れさせません。そして、それに加え、何か事が起きた場合にも、警報アラームが鳴ります。このように、ここまでいって、はじめて機械による管理と言えます。ビルの管理において、実際は何でもないようなことで、警備会社が駆け付けてきた実例を知っている会社員もいるでしょう。機械による管理とは、無視や思い込みを許さない管理であり、こういうことなのです。

最後に

さて、最後に話は変わりますが、この幼稚園、数々の「大切にする」シリーズで有名な、元法政大学教授の坂本光司著の『静岡発 人を大切にするいい会社見つけました』に紹介されていると、園が宣伝しているようです(HPより)。 これは、現在となっては、もはや皮肉でしかありません。「勝って兜の緒を締めよ」という言葉がありますが、紹介されたことで、さらに様々な面で向上させてほしかったと思います。全国の関係者の皆様、これを教訓に、今一度、兜の緒を締めてほしいです。

 

尚、ミスやヒューマンエラー単体を扱ったものは、過去に書いており、こちらも興味がありましたら、合わせてご参照下さい。参考になれば幸いです。

ミス(ヒューマンエラー)とは何か ―減らすために私が考えたこと― - 哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

「メディアが旧統一教会を取り上げるのは、山上容疑者の思惑通り」という誤りについて

本日、7月31日のTBS・サンデージャポンという番組は、旧統一教会の問題を取り上げていて、鈴木エイト氏、ひろゆき氏をはじめ、議論がされていた。

 

その中で、太田光氏が「今回の暗殺テロ(暴力)から、旧統一教会をメディアが取り上げることは、山上容疑者の思惑をなし崩し的に達成している事」みたいな意見を述べていた。

一見、これは、さも正しそうな見解と捉えられるかも知れない。

しかし、本当にそうだろうか。

 

山上容疑者は「母親が旧統一教会にのめり込み、破産や、実兄の自殺、家族崩壊に至ったことで、教団に激しい恨みを持った」という供述をしていることは、報道で明らかだろう。

つまり、 山上容疑者の犯行は、家族・家庭を失った怨念的自己満足的な犯行なのである。

それもそのはずだが、山上容疑者は、ジャーナリストでもないし、報道関係者でもない。ただの恨みを持った「悪」なのである。そこに、不正を正してやろうとか、不正を防がないといけないというようなものは、全くない。

もっと言えば、今回の犯行に、正義感は全くないのである。

 

そして、そもそも歴史的に見ても、民主主義の中、テロで共感されたことはないことも、事実だ。それは、多くのテロ事件を見ても明らかだろう。多くの世論は、テロに共感しないのである。

 

よって、太田光氏の意見はミスリードでしかない。メディアに出て、発言力のある人が、推測的にミスリードしてしまうのは、よくないことだ。

 

山上容疑者が「メディアの旧統一教会を追求」を目的に犯行に及んだわけではない。もし、そういう動機であれば、当然メディアも報道自粛するだろう。

 

しかし、今回の山上の犯行は、現在の供述でいくと、個人的な恨み晴らしで全く関係ないのである。簡単に考えれば、例えば、メディアが30年間ずっと報道し続けていたとしたら、山上は犯行に及ばなかったのかとすると、それは、山上の語る動機からあり得ない。彼の供述している動機は、恨みだからだ。

 

個人的に抱える恨みは、自分で解決しようとする。それをただ実現したまでのことに過ぎないだろう。ここに、正義感も何もない。相手がもし、旧統一教会のような団体ではなく、まともな団体でも、個人的に恨みを持てば同じようにしただろう。それは、自己満足に過ぎないからである。自らのモヤモヤ・怒りを解決する手段としての犯行だということだ。

旧統一教会という問題について

世の中には、やって良いことと、やってはいけないことがある。

 

統一教会の問題に関して出てくる2つの大きな問題。

一つは、霊感商法。もう一つは、宗教名を隠した勧誘活動。

 

まず、霊感商法というと、一つの営業手法のように聞こえるかも知れない。しかし、これを、ふつう一般企業が行うことはしない。なぜなら、監督官庁消費者庁に摘発されるからだ。又、裁判を起こされて負けるからだ。そうすると、口コミ被害も出てきて、一気に企業は信用を失い、企業存続の危機となる。だから、やらない。

 

同じく、自らの宗教名を偽った勧誘活動、これも、ふつう一般企業はやらない。これは、人材募集の際の秘匿と、営業の際の企業名の秘匿があるだろう。どちらも、先程の霊感商法と同じく、監督官庁消費者庁に摘発される恐れは大きい。又、同じく、裁判を起こされて負けるだろう。そして、結果は一つだ。

 

よって、これらは、やってはいけないことなのである。そして、もしやるとしても、社会一般に認容される形でなければならない。そうでないと「詐欺」だからだ。これは、摘発するかしないかを、刑事当局が握っていると言える。

 

この旧統一教会の問題においては、まず、これまで刑事は動いていない。検察も同様である。それはなぜかと言えば、憲法の信教の自由があるからである。これを隠れ蓑にしている。本当はそれではいけないのだが、事実、宗教団体を規制する行政当局は、一つもない。なので、民事でやるしかない。その民事では、最終的に司法の裁判所が救済している。最高裁判例もある。その意味で、司法が一定の役割を果たしてきたと言える。

 

さて、旧統一教会に関する問題の「どこが問題なのか分からない」というトンデモ発言をしたトンデモ自民党幹部もいたが、騙してお金を出させるということで、同じ詐欺ということなのである。よって、それが分らないということは、詐欺というのが分かっていない、分かろうとしていないということになる。

 

又、任意の金銭供与なのだから、それは問題なのかというような、ふざけた意見が、名のあるような人からでているが、これも、詐欺を犯罪としてどう見ているのか、という根本的な問題であって、全く理解していない話だ。

 

こうも、肩書きをもった人々が、問題の本質を理解していないのかと、とても腹立たしい限りである。

山上容疑者への過度な同情への疑問

概略

世の中には、素直な人も多いようだ。よって、裏を返せば、騙される人も多いということになる。しかし、実際、そんなに甘くはない。

 

あの山上容疑者に、減刑の署名がネットで求められているという。私からすると、あり得ないことだ。なぜなら、今回の犯行に同情の余地は全くなく、人としてのラインを越した容疑者には、それなりの刑罰が必要だと考えるからだ。

 

それは、今回の事件は、あってはならない事件だということ。

理由

一つ目は、自らの意見が通らなかった場合には、犯罪をも選択肢とするのは、民主主義の否定だということ。意見は自由だが、決まったことには従うのがルールだ。自分の考えを他人に強制することは出来ない。その最たるものが暴力・犯罪・テロだ。しかも国政選挙中。国政選挙は、民主主義の根幹であり、ここが脅かされると、立候補が難しくなるし、政治活動も難しくなるし、表現も難しくなる。だから、一番あってはならない状況なのである。よって、この侵害に対しては、強い態度で望まなければならないし、それはどんな異なる意見があったとしても、断固として、民主主義を揺るがす悪から守る必要があるのである。

 

二つ目は、教団と安倍元首相との関係で、安倍元首相が殺害の的になるほど深い付き合いとは言えないのに、犯行が行われたという、自分勝手な解釈での犯行だということだ。政治家と宗教との関わりなんて、たかが知れている。報道でもある通り、政治家は応援してくれる人・法人に対し、大切に扱う。ただ、それだけである。政治家が宗教の教義を決めるわけではないし、活動を決めるわけではない。又、安倍元首相以上に深く付き合いのある人や、同程度付き合いのある人は、数多くいるだろう。

 

三つ目は、第三者被害も想定され得る銃の使用だ。そもそも、はじめは爆弾も考えていたというような奴なので、周りの人のことは、全然考えていないと明らかだ。散弾式の銃ということで、今回、他に被害者がいなかったのは、偶然中の偶然だ。選挙カー等が被弾していたというのだから、他に被害者がいても、全然おかしなことでは全くない。安倍元首相だけ狙ったわけではなく、他が巻き添えになっても仕方ないというような、凶悪犯と言えよう。

考察

そして、なぜ、素直な人は、同情するのかということだ。山上容疑者は「教会に恨みが・・・」と言う。

これを素直な人は「旧統一教会、酷いもんなー」「子供の頃にああいう状況になったら、病んじゃうよね」等と、真に受けてしまうのだ。

しかし、これは、大きな誤解と考える。

 

確かに、山上の学生や子供の頃(被害の頃)の犯罪なら、そういう所は大きいだろうし、そう考えることもできる。しかし、山上が社会に出てから何年経っているのか。兄が亡くなってどのくらい経っているのか。その間、仕事も長かっただろうに。報道では、その間に自殺未遂等して等というのもあり、相当大変な時期だったことは察することができる。しかし、重要なことは、その時は、それまでだったのである。結局は、彼はその時は何もしていないのである。

 

そして、まともであれば、仕事に出てから考えれば分かることだが、家族が破産させられたといっても、山上は、その家族の子供だ。山上の家族がどれだけのお金を保有していたか知らないが、山上は、単なる子供である。成人し、時間が経っているのだから、そこから抜け出すことは、十分見込めた。しかし、山上は、そうしなかった。そもそも、その破産させられたお金も、山上の物ではない。母親が好んで献金した、母親のお金であり、1円たりとも、山上のお金ではない。それは、成人したのだから、自分で独立し、自分で稼ぐべきだろう。しかし、山上はそうしなかった。尚、母親はまだ健在だ。

 

そして、問題は、その人間が、なぜ今なのかということだ。40過ぎの人間である。要するに、大半は、自己満足で計画したものの充足だったのではないかと考える。つまり、過去に恨みがあった。それは確実だろう。それを引き摺り、成人した。成人したその後もそれを引き摺り、自分で(自分だけで)事を解決しようとした。様々やろうとしたが、うまくいかず、ついに犯罪行為を思い至った。それを実行すべく、日夜研究を積み重ね、遂に実行したのであろう。途中、止めるようなタイミングを自ら、なくして。執念深い男なので、計画を諦めきれなかったのであろう。色々計画変更している。それも又、凶悪である。執念深いので、万一、出てきた場合の再犯も気にかかる(なにせ、目的は安倍元首相ではなく、教団というのだから、彼の真の目的達成とは言えないのではないか)。

 

こういう男に、どういう同情の余地があるというのだろうか。辛い人は沢山いる。苦しい人は沢山いる。しかし、こういう犯罪に手を染めるのは、一部だ。我々は、我々のルールによって、その一部の一線を越えた者には、刑罰を科すこととしている。それは、我々人間が、人間としてのルールを破ったときは、我々人間と同じ中に置いておくことが出来ないというルールである。これがあるからこそ、我々は、他の動物と異なる性質をもつ。それは、人を殺すことはあってはならないということである。

 

どんなに辛くても苦しくても、許されないことがあるのである。民主主義の破壊が一番許されない。それが社会というものなのである。

まとめ

そもそも、山上容疑者に、0.1ミリも同情の余地がない。

 

①被害者は教会を応援しただけの政治家。

→教会関係者には直接、何も加害していない一方、応援という超間接的な行動だけで、命を狙う理不尽さ。

②被害時から経過し42歳。

→精神的・経済的にも独立すべき者で、かつ、恨みを犯罪で解決してはいけないことを理解すべき年齢。

③銃の使用。

→自己満足実現のために手段を選ばない常軌を逸した無法者の思考。違法行為を全く躊躇しない自己中心的な姿勢。

④流れ弾を無視。

選挙カーに弾痕。他者の被害も十分あり得た状況で犯行。

⑤選挙中。

→無防備な中での卑劣で汚い犯行。民主主義を踏みにじり恐怖に陥れた最悪の行為。

 

加害者の心情を考え「かわいそうだ」「不憫だ」と。

しかし、犯罪をしない人の中に多く「かわいそうだ」「不憫だ」そういう人が山ほどいるだろう。

擁護する人々には、それが山上容疑者で本当に良いのか、ということを冷静に考えてほしいものである。

新型コロナワクチン3回目接種時の副反応について―体験談―

 私は、新型コロナワクチンを3回接種した。全て、ファイザーだった。その体験記を書いておきたい。これから接種する人は、是非参考にしてほしい。というのも、世の中の公的な体験記が少なすぎるのである。又、あっても、とても抽象的で、短くされていたりするものも多い。これだけ全国民的なものなのだから、もっと体験記があって、もっと情報共有があっても良い。しかし、こういう情報共有が全然なっていない。今も尚である。そして、この先も当分、こういう情報共有はないだろう。

 

 尚、副作用と副反応という同じような言葉があるが、私としては、作用するという意図が全くないにもかかわらず、反応が出てしまうということで、副反応と呼ぶこととする。

 

 さて、1回目は、近所の病院で接種した。ワクチン専用の受付があるような比較的大きな病院である。数十人が列をつくっている。そこに並んで受付を済ます。5つ位のブースがあり、医者の問診を受けて、そのブースに並ぶ。歯科医師を含めた医師らがいて、次々に接種が行われている。何と効率の良い手早いことかと。接種後、接種完了の紙をもらい、又、時間が書かれた紙をもらい、大規模な椅子に案内され、そこに座る。時間が来たら、終了である。

 尚、この接種前に用心して、ラックル速溶錠を購入した。アセトアミノフェン300㎎で、購入した薬局の薬剤師がすすめてくれた。尚、調べると、アセトアミノフェンというのは、他効能のある2種類との比較で、一番副作用がなく、幅広く使えるとのこと。又、ラックル速溶錠に入るアセトアミノフェンは、現在の市販薬の中でも同列最上位であるという。因みに、病院で出されるアセトアミノフェン含有の薬剤は、500㎎が入っているようである。

 又、行きは時間に遅刻しそうになったので、タクシーを使った(長蛇の列だったので、不要だったと後々後悔する)。帰りは、バスで帰ってきた。

 副反応は、接種部位が痛く、そこを底にして、横向きに寝られない(寝ようとすると痛い)といった症状が数日続いたくらいで済んだ。他、自覚症状はなかった。

 

 2回目も、上記と同じ病院で接種した。今度は、バスで往復した。2回は、歯科医師さんに接種してもらった。医者と遜色なく、むしろ、すごく上手であった。

 こちらも、副作用は、接種部位が痛く、そこを底にして、横向きに寝られない(寝ようとすると痛い)といったくらい(こちらも数日続いた)で済んだ。他、自覚症状はなかった。

 

 3回目は、2回目接種から約10ヵ月経過後。予約が取れなかったので、少し離れた、今度はターミナル駅近くの小さい病院で接種した。古い昔ながらの病院である。受付は1ヵ所で、受付の女性は何人もいるのだが、患者の捌きが悪い。尚、患者は主に高齢者のようだ。そこで約1時間待たされた。患者の対応の合間に診察・接種の病院だ。ようやく名前を呼ばれ、診察で、優しそうな高齢の医者から「3回目は、気をつけてね^^」という、励ましを受けたくらいで、すぐに診察は終了。

 その後、また名前が呼ばれ、看護士による接種が行われた。時間の書かれた紙を渡され、待機。時間を過ぎた頃、看護士が声を掛けてきた。紙に、サインをし、それを受付に持っていくと、接種証明をくれた。

 帰り、電車とバスで帰宅した。尚、帰り道、ターミナル駅で、ステーキを食べ、シュークリームとドーナツを購入。因みに、バスを逃しアクセス悪く、バスに30分以上待つことになった。

 そして、懸念点。それは、3回目接種時だけ、前日の睡眠時間0ということだ。不規則な生活で、夕食後の8時位、眠くなり寝てしまったのだが、午後11時に目が覚め、そこから勉強。寝ようと思った午前2時前。そこから寝られなくなってしまった。尚、ルネスタという不眠症で処方されている睡眠薬を1錠だけ飲んだが、それでも寝られなかった。そういう状態でのワクチン接種だった。

 尚、帰宅後は、17時位から就寝。夕食の時間を過ぎ、午後9時くらいまで就寝。そこから勉強をして、又、午前0時前頃、処方されている睡眠薬ネスタを飲んで就寝した。

 

副反応の記録

 午前3時前 寒気で目が覚めた。全身が震えるような感じの寒さであった。収めるため、布団をかぶり約10分震えた後、顔のポカポカ感を感じた。熱を測り、38度だった。毛布を追加し寝るも、熱感と汗で寝られず。汗を拭き用意したラックルを服用した。他症状なし。さすが、ラックル速溶錠。飲んだ瞬間に効き目を実感した。少し体が楽になる。

 

 午前6時頃 熱で寝られず。セブンイレブンのカルビ弁当を食べ、寝るも、今度は頭痛がはじまった。ズキズキする。

 

 ここから、暑さと頭痛が続いていくことになる。午後8時までに、合計睡眠時間は1時間程だろうか。ほとんど寝られず、熱さと頭痛。バナナとポカリスエットのみで、凌いだ。38度~37度台後半。

 

 午後8時頃 カップうどんを食べようとするも、数口しか食べられず。バナナを何とか食べ、ラックル速溶錠を2回目服用。冷えピタを投入。ここも、さすがラックル速溶錠。効き目が早い。体が少し楽になる。ただ、寝ようとしても、寝られない。腰の痛みも出てきた。尚、頭痛は軽快してきていた。

 

 ワクチン2日後 午前6時頃 ここまでほとんど寝られていない。体もだるく、微熱37度前後。尚、頭痛が治まってきたため、何か食事をしなければと、バナナ3本を食した。食欲は回復してきた様子。

 

 ワクチン2日後 午後2時頃 前回からこの間、2、3時間程睡眠がとれるようになる。お昼は、自ら作ったそばを食べる。この時点で、熱は36度台をキープ。楽になる。

 

 ワクチン2日後 午後3時頃 体調が回復してきて暇になってきたため、ようやく起き始める。

 

 ワクチン接種2日後 午後5時頃 胸の上部辺りに痛みを軽く感じる。横になって少し安静にして10分程で収まる(ワクチンの珍しい副作用の一つである、軽い心膜炎・心筋炎というよりも、クーラーをかけて少し寒くなっていたのが原因の可能性も高い。尚、熱中症との見分けがつかなくなるといけないので、副作用後、室温を1日中、27度程に保つようなエアコン設定をしていた)。

 

 ワクチン接種2日後 午前0時頃 倦怠感と軽い微熱が残るものの、回復。しかし、なぜか微熱がある(37.0度を超さない程度)。

 

 ワクチン接種2日後 午前2時頃 体が汗だらけで、かつ埃だらけになってきたため、シャワーを浴びた。とても爽快だった。その時、脇の下に違和感を感じた。脇の下の軽い痛みである。その後、就寝。

 

 ワクチン接種3日後 午前7時30分 起床。気分は良い。熱は微熱(36度後半)。ワクチン接種後、はじめて仕事へ行った。食欲もある。なるべく、時間に余裕を持っていった。

 

 ワクチン接種3日後 午後4時過ぎ 少し頭が重い感じがしてくる。働き過ぎだろうか。微熱があるのだろうかと思うような感じがする。他、症状なし。

 

以上、経過である。

 

 1回目・2回目と、3回目の副反応の大きな違いは、接種部位の痛みが少なかったことだ。その代わり、接種部位の側の脇の下辺りに違和感・軽い痛みを感じ続けた。

 

 因みに、副反応があるということは、それだけ抗体があるということらしい。高熱等の副反応を示した人は、そうでない人よりも、抗体が高かったという報告が挙がっている。尚、解熱剤によって、抗体量は左右されないということも報告されている。

 

 そして、色々と体験記を調べてみると、何と38度台の高熱があっても、解熱剤を飲んで接種の翌日出勤していることを書いている強者というか、根性というか、休みが取れない環境というか、そういう人もいるようである。その方は、相当辛かったようだが。なので、その体験記は、その職場への嫌がらせとも取れるし、強者だなとも取れるし、ふーんとだけでも取れる。私は、計画的に接種し、接種日含め、しっかり3日間休ませてもらった。

 

 さらに言えば、副反応というのは、一瞬でもない。超短期的には、アナフィラキシーショックというものがあるが、短期的には、このような高熱や、悪寒、接種部位の痛み、心膜炎、心筋炎、倦怠感等があり、長期的には、血管的な障害が報告されているところであろう。よって、接種後1週間程度は、予断を許さないとも言えるので、このくらいまでは、出来れば個人的には1ヵ月弱程と思っているが、このくらいまでは、激しい運動は控えるのが一番の大事かと思っている。

全てに共通すること「他人を尊重できないなら出ていけ」 ―米空軍士官学校の校長の魂の言葉―

他人の尊重。これは、全ての人権問題の根本だ。

 

そうは言っても、今の世の中、ストレス社会。日本では、SNS等での誹謗中傷や、ヘイトスピーチの問題等がある。都会における公共交通機関でのいざこざも、日常茶飯事と言える。米国では、差別問題を発端とする痛ましい事件も多い。

 

そんな社会の中、当時のアメリカ空軍の幹部・Jay Silveria中将の訓話が素晴らしいのである。

是非、紹介したい。

 

「他人を尊重できないなら出ていけ」 米空軍士官学校の校長

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民主主義における国葬について

安倍元首相が銃撃で暗殺され、2週間ほどが経つ。その中で、ふと疑問に思うことがある。国葬についてだ。個人的に、安倍氏の政策は功罪あり、私個人、全然支持しておらず、今でも大嫌いだ。疑惑が多い政治家なことは確かで、森友・加計・桜は有名。個人的には、教育基本法改正等の右派政策は、全く支持できない。一方、結果はともかく、経済面で何か事を起こそうと努力されたことは評価したい。

 

しかし、そういう私でも、個人的に国葬には賛成だ。なぜなら、今回は、民主主義の世の中にあって、銃撃テロでの死だからだ。これは、他と全然違う。民主主義を破壊した行動に対し、国葬として、民主主義が揺るがない決意を固める儀式とするのである。民主主義の中、その選挙応援演説中に、銃撃で暗殺する等、どういう理由があるにせよ、許されず、あってはならないことだ。 暗殺することで物事を解決しようとすることは、民主主義に対する挑戦に他ならない。

 

まずは、世論調査を見てみる。NHKの7月の結果だ。

「政府は、安倍元総理大臣の葬儀を、国の儀式の「国葬」として今年秋に行う方針です。この方針への評価を聞いたところ、「評価する」が49%、「評価しない」が38%でした。NHKは、今月16日から3日間、全国の18歳以上を対象にコンピューターで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。調査の対象となったのは2344人で52%にあたる1216人から回答を得ました。」

とのこと。

 

そもそも、国葬とは、国でやるというということ以上でも、それ以下でもなく、個人を無条件に讃える式典では決してない。それを、さもそうあるかのようにするのは、逆にミスリードに他ならない。

 

賛成派は「功績があったから」 と言う。反対派は「賛美することになるから」 と言う。全然違う。いや、もし、国葬がそういうものであるなら、民主主義の世の中で不要でしかない。なぜなら、どの政治家にも功罪あるからだ。100%の支持を集める政治家などいないし、いてはならない。

 

国葬の意味は、民主主義の世の中にあって、それを暴力・暗殺という行為で破壊した無法者の手にかかってしまったことについて、それを悼み、民主主義を守る姿勢を示すということであるべきなのだ。

 

又、もう一つ挙げるとするならば、憲政史上最長の首相在任ということだ。これは、形式的なものであるが、戦後70年以上も経っており、大きな記録である。

 

そして最近、国葬をやる場合とやらない場合の区別・客観的基準が必要という意見がある。ただ、それを作成したとしても、今回はどう考えても国葬を行うケースになるだろう。むしろ、初の吉田茂元首相が適切だったかどうかという議論はあり得る。 今回、民主主義の選挙応援演説中に暗殺されたことが大きい。

 

民主主義の選挙応援演説中に暗殺された元首相を国葬せず、いつ・どういう人の国葬が適切なのか。税金を民主主義を守るため使うより重要なことがあるのか。民主主義は暗殺を容認するのか。容認しないと心の中で思うだけで守れるか。

 

よって、もし、安倍元首相が病気や事故で亡くなっていたら、私は、国葬に反対だ。しかし、今回は、事件の重さと民主主義の中での凶行を鑑み、国葬に賛成する。