哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

民主主義における国葬について

安倍元首相が銃撃で暗殺され、2週間ほどが経つ。その中で、ふと疑問に思うことがある。国葬についてだ。個人的に、安倍氏の政策は功罪あり、私個人、全然支持しておらず、今でも大嫌いだ。疑惑が多い政治家なことは確かで、森友・加計・桜は有名。個人的には、教育基本法改正等の右派政策は、全く支持できない。一方、結果はともかく、経済面で何か事を起こそうと努力されたことは評価したい。

 

しかし、そういう私でも、個人的に国葬には賛成だ。なぜなら、今回は、民主主義の世の中にあって、銃撃テロでの死だからだ。これは、他と全然違う。民主主義を破壊した行動に対し、国葬として、民主主義が揺るがない決意を固める儀式とするのである。民主主義の中、その選挙応援演説中に、銃撃で暗殺する等、どういう理由があるにせよ、許されず、あってはならないことだ。 暗殺することで物事を解決しようとすることは、民主主義に対する挑戦に他ならない。

 

まずは、世論調査を見てみる。NHKの7月の結果だ。

「政府は、安倍元総理大臣の葬儀を、国の儀式の「国葬」として今年秋に行う方針です。この方針への評価を聞いたところ、「評価する」が49%、「評価しない」が38%でした。NHKは、今月16日から3日間、全国の18歳以上を対象にコンピューターで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。調査の対象となったのは2344人で52%にあたる1216人から回答を得ました。」

とのこと。

 

そもそも、国葬とは、国でやるというということ以上でも、それ以下でもなく、個人を無条件に讃える式典では決してない。それを、さもそうあるかのようにするのは、逆にミスリードに他ならない。

 

賛成派は「功績があったから」 と言う。反対派は「賛美することになるから」 と言う。全然違う。いや、もし、国葬がそういうものであるなら、民主主義の世の中で不要でしかない。なぜなら、どの政治家にも功罪あるからだ。100%の支持を集める政治家などいないし、いてはならない。

 

国葬の意味は、民主主義の世の中にあって、それを暴力・暗殺という行為で破壊した無法者の手にかかってしまったことについて、それを悼み、民主主義を守る姿勢を示すということであるべきなのだ。

 

又、もう一つ挙げるとするならば、憲政史上最長の首相在任ということだ。これは、形式的なものであるが、戦後70年以上も経っており、大きな記録である。

 

そして最近、国葬をやる場合とやらない場合の区別・客観的基準が必要という意見がある。ただ、それを作成したとしても、今回はどう考えても国葬を行うケースになるだろう。むしろ、初の吉田茂元首相が適切だったかどうかという議論はあり得る。 今回、民主主義の選挙応援演説中に暗殺されたことが大きい。

 

民主主義の選挙応援演説中に暗殺された元首相を国葬せず、いつ・どういう人の国葬が適切なのか。税金を民主主義を守るため使うより重要なことがあるのか。民主主義は暗殺を容認するのか。容認しないと心の中で思うだけで守れるか。

 

よって、もし、安倍元首相が病気や事故で亡くなっていたら、私は、国葬に反対だ。しかし、今回は、事件の重さと民主主義の中での凶行を鑑み、国葬に賛成する。