哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

なぜ政治家にならないのかと聞かれたら―民主主義から考えた理由―

素晴らしい業績等をあげていると、よく「政治家にでもなるのかな」とからかわれる場面がある。しかし、どういう業績にせよ、政治家になるということは、必ずしも、そんなに嬉しいことでもない。

※私は、素晴らしい業績をあげたことのない、一般人だが。

民主政治において、政治家というのは、例えば、タレント議員なんという者が、人気で当選することがある。有権者はきちんと見ているというが、それは100%ということはできない。きちんと見ている人も多いが、有名人だから投票するという理由の人もいることは確かなことである。そういった人に媚を売ったりして、自分を売って票を買ってなるような職には、就きたくない。

又、ある人がある物事について、いいことを言っていたとしても、それが全体の中で採用されないことが出てくる。価値観の違いだと言ってしまえばそれまでだが、価値観というものにすり替えるのではなく、本人としては、正当か不当か、正しいか正しくないかの問題だと捉えて認識しているにもかかわらず、採用されないことがある。そして、これを分からない人に説明する、納得して頂けない人に説得するというが、一つずつ説明していっても、時間もかかるし、又、無関心で聞こうとしない者もいるし、はじめから固執し、いいものがあればそちらに行くという態度ではなく、凝り固まっている人も多くいる。

そうした凝り固まりは、自分の欲のための既得権益や、自尊心の場合が多い。自分の判断に迷いがあったり、自分の身を守るためならまだしもいいのだが、欲の拡大や自尊心などによって、他の情勢を考えない人に、頭を下げる価値など、どこに存在するのか。

そもそも世の中は、極端な者、浮動する者、無関心な者等という多様な者が存在しており、それらの感情や論理の微妙なバランス関係が一応はとれているようになっているので、民主政治では、極端に悪くなることが困難であり、それが避けられるとされる。しかし、極端によくなることも又、避けられる。まあ、そういったものが民主主義というものであって、極端に悪くなることは避けられるのであるから、大枠の民主主義よりもいい制度というものは見当たらないのであるが、そういう理由によって民主主義は、全体としては極端に良くも悪くもならない。

その一方で、全体として良い悪いの結果が生ずる。例えば、全体ではなく、一つの分子に過ぎないある人が、ある物事について、いいことを言っていたとしても、それが採用されないことがあるのである。なぜなら、そのある人は、全体の中の一つの分子であり、全体を構成する要素の一つだからである。全体として動いている場合、一つの分子では、ほとんど何もできない。全体を大きく動かすような大きなことを何かするためには、全体への働きかけが必要となる。しかし、その全体には、先ほどにも述べたような、色々な人がいる。欲の拡大や自尊心などによって、他の情勢というものを考えない人に、頭を下げる価値など、どこに存在するのか、という論理がここでも登場するのである。例え、頭を下げたところで、彼らは無心になって心を入れ替えるのか、甚だ疑問に感じる。なにせ、そういうことは簡単にはないことだと、私自身も思っているのだから。長い時間が必要なのだ。それでも、動かない人もいることも、又、確実だろう。

よって、私は、確かに一人の人間は、海の水の一滴であり、それで差支えない。しかし、ある時代に生まれた人間の活動として、私は、出来る限りは、海の水の一滴にはなりたくないと思っている。よって、政治家は御免である。一方で、極端に悪くなりそうなときに、極端に悪くさせる層だけに主導権を握られては、そうでない層が無視される。そういうときには、抗議したり、意見を出したりすることが一つの民主主義のあらわれであり、一つの国家の運営である。

あくまでも、民主政というのは、多様な意見の中で形成されている。それが極端な一つの意見になってはいけないし、間をいかなければならない。それが極端と極端に挟まれた中で、一つの道として示されるわけである。その一つに道は、時代によって様々な方向に変化するが、片一方もまた存在し、もう片一方の極端のみで大多数を占めることは、人の判断として到底難しいため、極端は避けられるはずというのがこの民主政の解明とまではいかないまでも、複雑で面白いところである。

しかし、極端と極端と、その間の幅広いところと、無関心という、こうしたもののうち、欠けるものがあれば、それは民主主義の危機となる。そうした民主制でなく、他の政治形態にならないよう、バランスよく見守る必要があり、バランスを欠いた時には、その又、反対側の層がバランスを戻すのがのぞましいと思料する。

ただ、間接民主主義である以上、政治家は必要である。すなわち、政治家自体の存在もまた、否定できない。それをやりたいかやりたくないかは、価値観である。そのため、私個人の見解であって、政治家にどうしてもなりたい、政治家になって・・・と夢を語る人に対して何も言うつもりはなく、むしろ、そういう人がいるからこそ、間接民主主義は成立するのであって、まじめに活動している方は素晴らしいと心から感じている。政策は別として。

以上、個人的に政治家になりたくない理由である。