哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

ミス(ヒューマンエラー)とは何か ―減らすために私が考えたこと―

ミスとは何か、ここでは、ヒューマンエラーとは何かとして論じていきたい。
文字通り、人が故意(わざと)ではなく、不注意でやってしまう行動を言う。

それは、結果的に、小さなことから、大きなことまで引き起こす。例えば、結果に大きな違いをもたらさない誤字から、寝たばこでの火事等の大きな結果をもたらすものだ。

 

しかし、小さな結果でも大きな結果でも、その原因が人間に起因するもの。しかも故意に(わざと)したものではないもの、それをヒューマンエラーと定義したい。尚、こうして短時間で記した文章で説明するのは難しいが、概念・イメージとしての「ミス」は、読者にも概ね理解できるだろう。

 

では、その原因は何か以下、列記した。矢印から先は、その対策である。

 

ヒューマンエラー(ミス)の原因

・知識の不足→知識を高める

・経験の不足→沢山経験する

疲労→休憩をはさむ

・病気→治療をする。回復してから行う。配置転換

・多忙→人手を増やす

・確認不足→チェックをする

・能力不足→知識・経験を増やす。配置転換

・慢心→人はミスをする生き物と理解し丁寧さを心掛ける

・緊張→休憩と心理的コントロール

・作業の複雑性→作業の簡略化の検討

・騒音や振動等の悪い環境→環境の改善

 

主に上記でほぼ万遍ないだろうか。

そして、これらミスについて、上記のような場合はミスをし易い、ということを認識することで、ミスを軽減できる。よって、これらの原因があったら「気をつけないといけないな」と自ら認識することで、そのミスを軽減してほしい。

 

又、ヒューマンエラーであっても、ミスをするのは、システム的な問題であることも多く、単純なヒューマンエラーで、大きな結果・事故に繋がってしまうのであれば、それはシステム的・機械的な所で、それをカバーする仕組みが必要である。
例えば、飛行機のオートパイロットや操縦士の2人以上・電車の緊急列車停止装置・自動車の車線踏み出し警告音・しいては、アメリカ大統領保持の核兵器発射の暗証番号ケース等は、システム的・機械的な所で、ヒューマンエラーをカバーしているものと言えるだろう。

 

人間は、ミスをするのだ。しかし、ミスについて、カバーをすることが必要だ。
おさらいし、まとめると下記のようになろうか。

①ミスの原因を減らす工夫

②ミスの原因が該当することの認識をした上での作業

③ミスをシステムで回避するようなシステム・環境

 

いずれも、ミスの防止には、カバーが多重であればある方が良い。
しかし、多重過ぎてしまえば、それは、効率が悪くなることもあり、又、複雑化して、知識等を必要として、それらが、又ミスの原因になることもある。よって、試行錯誤することが常に重要だ。
例えば、旅客機(飛行機)については、様々な飛行機事故・ヒューマンエラーからの教訓をもとに設計や操縦方法等を変えている典型だ。

どの分野でも、ミスの防止は長年の研究によるところが大きい。だからこそ、その長年の失敗・犠牲を含む研究を無駄にせず、是非、それらを生かすことで、ミスを限りなく防止できると考える。
逆に、それを疎かにすれば、ミスの防止には、ほど遠いだろう。ミスのPDCAサイクルとでも言おうか。

死とは何か―動物は電気的な信号で動く―

死とは、無である。しかし、これを想像出来ない人は多い。
ただ、死に近いことを我々は、毎日経験しているとみる。それは睡眠だ。

睡眠時、夢を見なければ、我々はどうなっているのか、全く自分自身では制御出来ない。ただの暗い闇だ。しかし、いつか起きるので、我々はそれを死とは呼ばない。ただの睡眠になる。しかし、その状態で目覚めなければ、それは死に通ずるものではないか。

さて、人間には、死を恐れる本能があると言われる。それは動物としての繁殖の本能からくるものが大きい。題目で、動物は電気的な信号で動くと書いたが、我々が電気的な信号で動いていない、又は動かない時があり、あった。それは、生まれる前である。母親の体内にいた頃、我々は電気的な信号がなかった。生まれて出てきて電気的な信号を得て、はじめて認識が出来てくるわけである。だから、その意味で、我々は、生まれる前は、死と同じ体験をしているとも言える。そして、死とは、その前に戻ることとも言える。死として、脳に栄養が行かなくなれば、電気的な信号は起こり得ない。それは死を意味する。

つまるところ、人間は、その意味で、脳と他の臓器は繋がっているとも言えるし、脳が主役だとも言える。電気的な信号により認識が生まれるだろう。

ハイリクスハイリターンと、ローリスクローリターン

ハイリクスハイリターン(以下「前者」という。)と、ローリスクローリターンという(以下「後者」という。)言葉がある。

大きなリスクはあるが、それを乗り越えれば大きな成果があるものが前者。
リスクは小さいが、乗り越えても小さな成果しかないものが後者だ。
例えば、前者が株式運用やFX、後者が銀行預金等とされる。
時々、中リスク中リターンというのもあるが、このような括りは、客観性と主観性を合わせ持つこともあり、難しい概念だ。

しかし、これらは何も投資等に限った話ではない。人生での選択も同じである。
例えば、独立し起業するのは前者。公務員が後者だ。

そういう中において投資でも人生でも、重要なことは、前者でも後者でも、常に流動的だということだ。
例えば、コロナという状況があるとすれば、独立しての起業は、業種にもよるが、飲食店なら、通常の時期よりも、ハイリスクの度合いが高くなるだろう。だから、考慮する一つの要因にそうした状況がある。

しかし、要因は、コロナだとかの環境的・外部的要因だけではない。自らの知識・経験・性格等も、そのリスクを大きくしたり小さくしたりする。
知識が豊富で、経験があり、人脈があり、努力家で健康的であれば、乗り切れる可能性は高くなる。しかし、例えば、知識が不足していたりすると、躓いて立ち直れない場合もある。だから、環境面をそうした属人的な部分で乗り切る・カバーするという考えも大いにあり得る。

どういうことかと言えば、別の例を出すようだが、ミスがある。
沢山の仕事を振られ早く業務を熟そうとすれば、ミスをしやすくなる。しかし、知識や経験等があると、そのミスも軽減される。又、沢山の仕事があり、こういう場合は、ミスをしやすくなるのだな、ということを頭に持っておく(認識)と、ミスも軽減される。

同様に、環境が悪くても、属人的な部分で、カバーすることが出来る。
よって、環境的な変化・変動のリスクを、又、前者と後者に備わるリスクを、いかに軽減できるかは、属人的な部分によるところが大きい。つまるところ、是非、そうした属人的な部分を伸ばして欲しい。前者後者だけで判断せず、自分自身を伸ばすことに力を使い、リスクコントロールをしてほしい。それが様々な場面で役立つ。

最後に、くれぐれも、健康にだけは気をつけ無理はしないこと。
それだけである。

令和2年(2020年)賃貸不動産経営管理士試験について

私は、本日、賃貸不動産経営管理士を受検してきました。

総勉強時間は、8時間程(前日と当日の猛勉強で5時間ほぼぶっ通しで猛集中)。

一般には、勉強時間100時間必要等と言っているサイトもあります。
ですが、他資格での勉強、法学部出身、勉強テクニックで、自己採点36点という結果でした。
私のプロフィールとしては、関連資格で、宅地建物取引士、管理業務主任者行政書士、公務員試験に合格実績があります。


今回は、この賃貸不動産経営管理士試験について、又、他の試験もそうですが、どういう思考でどう解けば合格が近づくのか、私の様々な経験を基にアドバイスしていきたいと思います。

では、今回の令和2年賃貸不動産経営管理士試験です。
これらは、公的な機関の見解ではなく、又、長年この試験を研究している専門家の見解ではなく、あくまでも、私の独断と偏見があります。
個人的に、この試験を分析・研究し、各種の法律や不動産系の試験を受験、賃貸不動産経営管理士試験を総勉強時間10時間弱で、自己採点合格可能性点数までいった者が研究した結果です。
少しでも、参考になれば幸いです。


◎個人的研究結果
 ・常識で解けそうな問題:16問
 ・最低でも知識が必要な問題:34問
でした。

常識で解けそうな問題は、是非、落とさずに正解してもらいたいと思います。こうした問題は、賃貸不動産経営管理士試験に限らず、宅建でも行政書士でも管理業務主任者でも公務員の試験でも見られます。
是非、ご参考にして下さい。尚、知識問題は、ある程度~しっかりした勉強が必要と判断しています。

●1問目(常識)

「管理業務の内容に違いはない」は、これだけであり得ません。

だって、仕事も資格も依頼する人も法律も、全然異なるでしょう。


●2問目(常識)

1番の選択肢を読んで、何ら不自然な所はありません。真っ当ですね。


●3問目(知識が必要)


●4問目(常識)

1番目の選択肢は、ハラスメント的なことですよね。常識で一発NGです。 

●5問目(常識)

「常に拒まない賃貸住宅」って、そんなわけないですよね。だって、あり得ないですが、反社とか、もの凄い性格悪い人だとか。常にですからね。

 

●6問目(知識が必要)

 

●7問目(常識)

「従事従業者」って、従業員何千人何万人いる大手の会社は、毎日届出ですか?って話ですね。そんな厳粛な法令でもないですし、そんな厳粛な業務でもないですよね。

 

●8問目~11問目(知識が必要)

 

●12問目(常識)

貸主の立場で直接交渉し、弁護士法違反になるわけがないですよね。さらに、又貸しとは言え賃借人の立場なので、当然責任は負うことになるのは、至極当然のことです。

 

●13問目(常識)

選択肢4だけで判断できますね。真っ当な文章です。

 

●14問目~16問目(知識が必要)

 

●17問目(知識が必要)

業務経験が活きそうです。又、これは有名な判例で時事問題でもありますね。

 

●18問目~29問目(知識が必要)

 

●30問目(常識)

選択肢1番、私物ですよね?相続放棄したとしても、アルバムはどうですか?

選択肢2番、共用部分に放置って、これ、普通は落とし物として警察ではないですか?

 

●31問目~32問目(知識が必要)

 

●33問目(常識)

コロナに罹かったって、調べて言い回って良いわけはないでしょう。病院や役所ではなく、単なる一民間企業であることをお忘れなく、ですね。

 

●34問目~36問目(知識が必要)

 

●37問目(常識)

逆に、見える部分の方が少ないですよね。配管、内部の劣化。大事な部分は見えないですよね。

 

●38問目(常識)

「打ち放し」という名前からして、点検必要と気付くと良いと思います。

 

●39問目(常識)

消去法で選択肢1しか残らないと思いますね。

 

●40問目~44問目(知識が必要)

 

●45問目(常識)

長期的観点からの提案が「不要」という選択肢が適切、ということは、公的試験であり得ないでしょうね。

 

●46問目(常識)

選択肢3の問題の文章が矛盾していますね。苦しい文章です。

 

●47問目(常識)

倫理なのに、公平・公正ではなく「一方に味方しろ」は、あり得ないですね。

 

●48問目~49問目(知識が必要)

 

●50問目(知識が必要)

不動産証券化の業務経験していれば分ることかと思います。
以上

臓器くじ問題の根本的な誤り

ウィキペディアで、臓器くじの議論を見つけたので、紹介する。

これは、
哲学者倫理学)のジョン・ハリスが提案したという、思考実験である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

ウィキペディアによれば「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。




この問題の大きな誤りは、見殺しによる消極的殺人や、手を下すことによる積極的殺人などというものではない。
そもそもが、健康な人を殺して臓器移植をしないと助からないという時点で、それは既に完全な医療・医学技術とは言えず、未発達状態であるということである。つまり、どういうことか。

臓器移植というのは、人類の歴史においても、近年確立された医療行為である。それは、長い人類の歴史では、臓器移植等をのぞめずに亡くなっていった、又は障害を抱えたのである。それが、医学の進歩で、生き得ることができる状態にまでなったのであって、健康な人と元々同じ状態ではないが、医学技術によっては、それを助けられるというものである。よって、消極的殺人というとき、それは、手を下す積極的殺人と同じにしてはならないのである。

医学の進歩前は、助からなかったが、その時代の人は皆、消極的殺人者であったかと言えば、そうではない。自然の原理として、仕方なかったのである。医学が発達し、そうした医学技術が使えるとしても、それを使うのは、健康な人を積極的殺人で殺して使うのでは、立派な殺人以外の何ものでもない。一方で、臓器移植が必要な人に対し、臓器移植をしないというのは、健康な人を殺さずに大勢の臓器移植を待っている方を見殺しにするものなのではなく、医学技術として、未熟で、まだ臓器移植が出来ない状態なのであって、見殺しではなく、単に健康な人を殺さないと臓器提供ができない医学未発達の状態に過ぎないと言うことでしかない。

従って、臓器くじは、その意味で根本的に誤りなのである。

自由研究の代行はいかがか ―夏休みの宿題の定番にプロの手―

何年か前に、宿題の代行が話題になった。

中には、自由研究もある。

自由研究の工作代行は3万円! 夏休みの宿題代行サービスに200件超の依頼殺到中
https://www.jprime.jp/articles/-/10441

そう言えば私の子供の頃、ものすごく簡単に済ませていたっけな、と思い出す。

自由研究は、自由研究のその名のとおり、何でも良いのである。

私が昔にやった簡単に済ませたもので言うと、
例えば、
家の近くの道路で、そこを通る車の種類(乗用車、バス、トラック、バイクの類か)を30分間数えて、それを、ただ表にして集計するもの。単純である。しかし、これは交通量調査と一般に言われるから、自由な研究だ。


「何でも良い自由研究に対して、お金払うのも、ちょっとな」
そう感じることが、この件に対して思う感想である。

「きれい事」という言葉のまやかしへの反論

ある発言があった際、それを聞いた人の中に、次のようなことを言う人がいる。


「そう言うキレイ事を言うなら、それを変えてから言え。」


私は、この言葉を聞いたり、目にすると、物凄い違和感が生じて仕方がない。

この発言は、少なくとも3つの意味で間違っているし、適切ではない。

一つは、それをもし、変えたならば、それを言う必要性がなくなるという点。
二つ目は、変わるまで盲目的に従っていて、声にも上げずに何もしない人間が、いい加減で無責任なことを言うべきではない、という点。
三つ目は、要約するに「ただただ従え」という、浅はかで無意味な言葉であるという点。

以上である。


例えば、現状の生活、政治、教育、誰かとの話合い、会議等。何にも意見も言わず、何の行動もしない。
私は、そういう生き方があってもよいと思っているし、むしろ、大衆的・一般的だと思っている。


しかし、声を上げる人、行動する人に対して「そういうキレイ事を言うなら、それを変えてから言え」というのは、図々し過ぎる。

何がキレイ事だ、何がそれを変えてからだ。上から目線にも程がある。


偉そうで何もしたことがない、平凡より少し下の人間、又は自分が優位に立とうとする人間にかぎって、そういうことを言う。