哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

臓器くじ問題の根本的な誤り

ウィキペディアで、臓器くじの議論を見つけたので、紹介する。

これは、
哲学者倫理学)のジョン・ハリスが提案したという、思考実験である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%93%E5%99%A8%E3%81%8F%E3%81%98

ウィキペディアによれば「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

  1. 公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
  2. その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。




この問題の大きな誤りは、見殺しによる消極的殺人や、手を下すことによる積極的殺人などというものではない。
そもそもが、健康な人を殺して臓器移植をしないと助からないという時点で、それは既に完全な医療・医学技術とは言えず、未発達状態であるということである。つまり、どういうことか。

臓器移植というのは、人類の歴史においても、近年確立された医療行為である。それは、長い人類の歴史では、臓器移植等をのぞめずに亡くなっていった、又は障害を抱えたのである。それが、医学の進歩で、生き得ることができる状態にまでなったのであって、健康な人と元々同じ状態ではないが、医学技術によっては、それを助けられるというものである。よって、消極的殺人というとき、それは、手を下す積極的殺人と同じにしてはならないのである。

医学の進歩前は、助からなかったが、その時代の人は皆、消極的殺人者であったかと言えば、そうではない。自然の原理として、仕方なかったのである。医学が発達し、そうした医学技術が使えるとしても、それを使うのは、健康な人を積極的殺人で殺して使うのでは、立派な殺人以外の何ものでもない。一方で、臓器移植が必要な人に対し、臓器移植をしないというのは、健康な人を殺さずに大勢の臓器移植を待っている方を見殺しにするものなのではなく、医学技術として、未熟で、まだ臓器移植が出来ない状態なのであって、見殺しではなく、単に健康な人を殺さないと臓器提供ができない医学未発達の状態に過ぎないと言うことでしかない。

従って、臓器くじは、その意味で根本的に誤りなのである。