哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

「きれい事」という言葉のまやかしへの反論

ある発言があった際、それを聞いた人の中に、次のようなことを言う人がいる。


「そう言うキレイ事を言うなら、それを変えてから言え。」


私は、この言葉を聞いたり、目にすると、物凄い違和感が生じて仕方がない。

この発言は、少なくとも3つの意味で間違っているし、適切ではない。

一つは、それをもし、変えたならば、それを言う必要性がなくなるという点。
二つ目は、変わるまで盲目的に従っていて、声にも上げずに何もしない人間が、いい加減で無責任なことを言うべきではない、という点。
三つ目は、要約するに「ただただ従え」という、浅はかで無意味な言葉であるという点。

以上である。


例えば、現状の生活、政治、教育、誰かとの話合い、会議等。何にも意見も言わず、何の行動もしない。
私は、そういう生き方があってもよいと思っているし、むしろ、大衆的・一般的だと思っている。


しかし、声を上げる人、行動する人に対して「そういうキレイ事を言うなら、それを変えてから言え」というのは、図々し過ぎる。

何がキレイ事だ、何がそれを変えてからだ。上から目線にも程がある。


偉そうで何もしたことがない、平凡より少し下の人間、又は自分が優位に立とうとする人間にかぎって、そういうことを言う。