哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

私の読書法

私が読書で得るものは、論理力と知識である。楽しい等というのは、それありきでは読書に求めない。それは、日常生活で様々な事象(人間関係や、他者の観察、テレビ、映画、アニメ等)で求める。
 そして絶対にやらないのが、スピーチを言ったりするときに使うこと。それは、その著者が挨拶しているのと同じ。自分の考えがなければ、そこでの読書の意味は単なるフィルターでしかない。自分が挨拶等している意味がないし、つまらない。
 私の読書は、まず多読。長年の経験上、この本はゆっくり時間を掛けて読むべき本か、速読する本かはだいたい分かる。それを使い分ける。それで、まず数を出す。そして、頭の中に生まれたものがその本から得た栄養である。論文を書く際の法律書は、速読である。そして、その本に何が書いてあるのかを理解する。以下、書いているように、気になったところには付箋をするので、それで十分である。論文を書く際の速読の場合、それで一気に1日で20冊弱はこなす。この状態で真剣に読んでいる状態になったときは、ものすごい集中力になり、様々な雑音が消え、話しかけられても聞こえないことが多い。そうすると、いつの間にか、それを読み終えている頃には、だいぶ知識がついたという意識と、頭の中がそれを考える思考になってくる感触を得られ、論文がどんどん進んでいく。そもそも、数冊を読み終えたような時点で、またこれか・このテーマか・この説明か、という感覚が出てくる。そして、発表等の際に質問を受けた時でも、それを一度読んでいるので、頭の中にあるか、どの本のどこくらいのページに書いてあるかということが瞬時に判断できるようになっている。
読書の際には、必ず付箋を持ち歩き、気になった箇所に付箋を付けていく(付箋は気になった箇所のはじめの段落と終わりの段落につける)。その付箋の数は、本によって様々。たくさん付いている本もあれば、全くつかない本もある。付箋を付けた箇所が自らが学ぶべきところ・疑問となったところ等というわけである。その後、コンピューターにデータとして、その付箋部分を、書名等とともに書き込んでいく。記録として残すわけである。このように、読んで、そのまま頭の中に血肉として残すものと、コンピューターの中へデータとして残すものの両面から、自らの知の体系を築いている。
しかし、他の人と違った考えは他にもある。それは、その人の本だけでその人を判断しないということだ。つまり、人間は会ってみなければわからない。だから、本から得るものは、あくまでも情報であり、知の体系である。なので、それはすなわち、すぐにリスペクト(尊敬)にはならない。確かに、自らの経験を踏まえ、人生観・思想を綴っている本もある。しかし、それはあくまでも、その人の一部であり、論理体系でしかない。会ってみて、又はその人を実際に見て、はじめて分かるものがより多い。そこではじめて、リスペクトとなるのであり、本だけで尊敬できる・せざるを得ないのは、あやふやなところの歴史上(古典上)の人物だけである。それでも、様々な日常生活等での情報も必要だが。現代に生きている人を本を読んでだけで尊敬するのは、軽率であると思う。なので、私は決して、リスペクトする作家というものを歴史上の人物(古典)以外につくらず、様々な人の文章を多読することに時間を費やす。しかし、リスペクトすることと、その人の文章が面白い・分かりやすい・為になることをたくさん忍ばせてくれている文章である・論理が矛盾ないと思うことで、その人の文章が好きになることとは別である。