哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

みのもんた氏の報道番組降板問題について

 タレントのみのもんた氏が、次男の逮捕問題で、報道番組の降板に追い込まれた。そこで話題になったのが、子供の責任は、いつまで親の責任なのか、というものである。
 
 私は、この問題は、期間などは関係ないと思っている。なぜなら、例え、10歳の子供であっても、何か悪いことをして、それを親がきちんと叱って指導しているならば、それは、親の責任とは言えない。甘やかし、指導もろくにしないのでは、親の責任と言われて文句は言えない。しかし、きちんと叱って指導しているならば、親の責任とは言えないのである。それを親の責任とするならば、悪さをしている子供、程度の差こそあれ、皆、親が悪いということになり、それは、つまり、子供と共に、親も罰をうけるべきだという議論に賛成をしてもらわなければならなくなる。子供が少年院・刑務所に行けば、親も一緒に行くべきなのであろうか。私は、そうは思わない。
 
 私は、子供が悪さをするのは、親の責任もあるだろう。社会の環境の責任もあるし、友達との関係や責任もあるし、周りの大人たちの責任もあるし、学校の責任の問題もあるなど、多々ある。よって、親の責任か、子の責任かという二者択一で論ずる論者は、私にとってみれば、頭が相当固い。確かに、割合でいくと、大きいかもしれない。しかし、現実は、そう簡単ではないのである。
 
 そういった観点から子供に対する親の責任を考えると、親が放置せず、無理な強制をせず、ちゃんと子供を見てあげて、時に褒めてやり、時にしっかりと指導し、叱っているならば、親の責任はない。
 
 みの氏の問題であるが、はじめの会見でみの氏は、番組関係者から、公明正大に中立にできるか、と問われ、自粛を決めたなどと言っていた。みの氏らしいが、私は、できる、となぜ言わなかったのかと考えてしまう。報道者としての心と父親としての心。私なら、できる、と言う。なぜなら、報道者としては、公明正大で中立。父親としては、独断と偏見。使い分けるのがプロフェッショナルなのである。父親としても公明正大で中立であれば、父親失格で仕事人間ということになるが、プロというものは、切り替えが大事であり、仕事では、一切の私情を持ち込まないのがプロなのであり、できる、と答えるべきであり、そして、その理由も説明すべきなのである。これが正当な論理というものではなかろうか。
 
 自分には全く関係のない犯罪での次男逮捕による、報道番組降板問題というのは、私としては、まったくもって理解できない。品位というものがあるのだろうが、今回の問題に限って言えば、みの氏がきちんと親としての指導を果たしてきたのであれば、親の責任など何にもない。まして、親の指導から離れている年齢でもあり、社会に揉まれている方が大きい年齢であるから、みの氏の責任など、私には到底理解できないものである。
 
 街頭インタビューで、それこそ母親世代にあたる人がインタビューされ、親の責任があるなどと言っていたが、では、子供が犯罪を犯せば、親も同罪とするということに対し、賛成なのかどうかを聞きたい。親に責任があるなら、これまでの逮捕者の全員の親は、罪の大小はあれど、とんでもないダメな、責任がある親であるということである。これは、報道人か否かではなく、子供の責任についてなのであり、そこで公明正大で中立にできないということになれば、それは、報道人としての、プロとしての問題なのであり、そこで問題となるのであり、子供の犯罪で問題となるということは、単なる話題以外の何物でもないのではないだろうか。
 
 私は、逮捕者の親が全員、責任ありと考えていない。中には、責任重大である方もいるだろう。しかし、大方は、異なると思う。何せ、人間は、科学的・機械的に、一様に成長していくものではない。生物である。そこには、偶然もあるし、様々なファクターの存在もある。子育て上、一義的に、何が正しく、何が正しくないのか、これに対し、明確な解答などない。あるのは、理論だけであり、その理論も本当に正しいのかどうかわからないし、人生は様々な方向があるのであり、多様性があるのであり、理論通りもできない。よって、親の責任と勝手に決めつけてしまうことに対し、私は、ここに疑義を挟ませていただく。