哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

美味しんぼ「原発事故関連」のマンガ描写について―表現の守られ方まで―

 美味しんぼの、原発に関するマンガが話題となっており、見てみました。
 私は、原発について、3・11以前より学んできて、そして、3・11以降、特に原発に関する文章を知恵袋をはじめ、このブログにも書いてきており、様々なネット上の方とも、ネット以外でも、大いに議論してきましたので、一言、言いたいです。
 
 まず、なぜ、そんなに批判される必要があるのか、ということです。一つの表現ではないでしょうか。論理は、後から述べますが、これは、単なる思いつき的なものではなく、きちんとした信念のある大きな表現なのであり、それに対して文句をつけ、人に被害を与えているというようなことを言うのは、表現の自由の侵害もいいところだと思います。いつから、政府の発表している情報以外のことを、表現すると注文をつけられてしまうようになったのでしょうか。甚だ疑問を感じます。
 そして、次に思い出したのがこれです。
  3・11後に、多くのところから情報収集をしていて、見つけたものの一つです。これは、あの2011年という、その時に書かれたものです。半信半疑ではありましたが、ドキドキしながら見ていた記憶があります。
 
 そもそも、今回のマンガを見たが、こんなにも批判される理由がバカバカしく、愚かとしか言いようがないです。
 
 一つ目は、福島県で鼻血が多く出ている、というものです。医学的に通説的ではないもの、などと主要な議員までもが批判していますが、通説は、あくまでも一つの説であり、他説と同じ一つの学説です。今回のことで言えば、医学的に立証されていない・因果関係がない、ということであり、それは「証明しようとしていない」か「まだ現時点で分かっていない」であり、実際のところ、現在の科学では分からないのです。そして、それを立証しても、メリットがない、ということもあります。なぜなら、そういう研究は、権力者や経済にとってマイナスの情報(人々を不安にさせるは、それが権力の責任ととられる傾向があるため、それは避けられる)であるからということと、研究自体が難しく(これについての因果関係の証明には、他の影響をゼロとしないと難しく困難)、成果として、特に貢献しない(何か治療の開発などではなく、皆が言わないまでも感じていることを示しただけになってしまうこと)ということです。一方で、放射線被害において、多量の放射線被害においては、物凄く痛ましいような死を遂げることが報告されており、そこに、鼻血を含め、出血の症状があることが報告されていることも事実なのです。今回のケースでは、多量と言えないことも事実で、又、今回のケースと多量に大分開きがあることも事実です。そして、それが、通説と少数説の開きであることも、又、事実です。それでも、全く関係性がないということは、100%言えないのです。つまり、通説、というよりも、因果関係は分からない、ということが本当は正しいのです。実際的にも、影響度合いを、0~100までどのくらいかは別として、0ではないでしょう。しかし、学問としては、一応の説を提示する必要があるのであり、このようなことになります。他にも、ここに書いている隙間がない程の、様々な政治的な駆け引きが作用しているのです。よって、我々は、そういった裏の事情を知らずに、単に安全だろ、と曲解してしまうのは、故意か過失かはともかく、無知か、無思考かです。重要なことは、ここでも無視できる程度と言う説と、無視できない程度という議論があるのですが、鼻血から先の健康被害の話だと思います。
 
 二つ目は、大阪のがれきを受け入れたことにより、被害が出た人が多い、ということです。これについては、私は、正確な数については、眉唾だと思っています。つまり、福島の現地取材と違い、これについては、専門家が、大阪でがれき処理焼却場近くの住民約1000人を対象に、母親たちが調査した、ということです。前の福島県の鼻血については、筆者が現地で取材したと言い、1次・2次的な情報であるとともに、学問的にも論理として貫徹しています。しかし、今回のがれき焼却場近くについては、取材者から、専門家、主婦、当事者と、4人も経由しています。ここまでくると、さすがに擁護できないくらい、怪しいにおいがします。つまり、この四者の誰かが間違っていれば、それは、大きな結果として認識されてしまうからです。そして、四者レベルになると、バイアスが大きく働いてしまうように思われます。よって、断定はできないですが、眉唾であると思っています。ただし、です。批判するマスコミ、そこに出ている批判するコメンテーター、批判する議員、批判するインタビューを受ける市民等、そこまで批判する必要があるのか、疑問を呈したいです。
 
 三つ目に、まとめとしたいと思います。そもそも、表現ということを考えるとき、私が考えるのは、社会通念上、突飛な考えに基づくものなのではなく、学問的・社会的な事実があり、学問的・社会的に世論を二分するような実際的問題の際は、表現が重視されるべきだということです。つまり、学問的・社会的に世論を二分するような立場は、わがままなこととは言えず、真に価値ある表現、本心からのものである、ということであり、尊重されるべきだと考えます。今回の事例で言えば、社会的に、この原発と健康の問題は、社会を二分するような大きな問題なので、正にこれに当たると思います。これに対し、突飛で、自分勝手的で、明らかに直接、人を傷つける目的を持ったものは、批判があってしかるべきだと思います。一方で、私は、どちらの言論的表現も、批判はあっていいと思います。それが重要です。しかし、今回の件のように、作者が悪い、福島県人が怒っている、国民が怒っている、というように、社会的に世論を二分するような問題を批判するのは、いかがなものか、と思うわけです。これにより、誰も傷つけていないのです。もし、これによって福島県人が差別されるようなことがあれば、その人が無知なだけなのです。鼻血を出した人がいたとして、そのことを聞いた人は何を思うでしょう。片頭痛持ちの人は多いですが、誰も差別しません。それと同じで、差別する意味がないのに差別する、これが侵害的な差別、です。よって、今回の問題は、誰にも被害を与えていません。なので、福島の方に迷惑はかけていないのです。しいて迷惑ということを言えば、大阪のがれき処理場の方に対してでしょう。私も、震災後に、がれき受け入れの方法について、沢山書いてきました。受け入れるべきだと言ってきました。私は東京生まれの東京育ちですが、受け入れてくれて、本当に嬉しいことだと思います。さすが大阪だと思います。そして、その処理場の方は、必死で有害物を出さない努力をしていると思われます。しいて言えば、その処理場に御迷惑を掛けているということになると思います。つまり、必死で放射能を出さない努力をしているのに、何が問題あったのか、と批判の的にされかねないからです。しかし、他の方には、迷惑になっているということは、理解できません。逆に、そういう主張があるのなら、聞きたいくらいです。
 
 よって、今回の件は、そんなに批判される理由が無知で無思考による、ということだと思います。まるで、作者が最終を待って反論、と言っているのに、それをさせないように、ここでしっかりと批判しておいて、反論を封じようとしているかのようです(反論は、きちんとした報道がされるか、どうかも怪しいでしょう。論理的であれば、大きく報道されず、なにか穴があれば、大きな報道になるかも知れません)。作者を、話題作りという人もいますが、作者のメリットが分かりません。もう既にこの問題の前から有名人なのであり、逆に、これが原因で既存の読者が離れてしまうこと(新規の読者は飽きがきやすい)や、本来の業務への支障があると容易に考えられます。なので、デメリットの方が多いのに、作者を悪者にしてしまう、これはやめた方がいいと思います。ある思いを感じ、それを書きたかったのだと思います。その思いが大きすぎ、多少大げさなところもあろうとは思います。しかし、総合的に、何の問題もなく、むしろ、問題点を浮き彫りにしていて、核心をつく素晴らしいものだと感じました。マンガだけでなく、他の形態でも読みたい内容だと思います。声を大にして言いたいのは、鼻血等で苦しんでいる人が、多いか少ないかは分かりませんが、いることは事実だと思います。どのくらいの放射能でどう影響するか、どのくらいの比率で影響するか、ですが、健康な福島県人を取材・報道して、いい加減・失礼、とするのは、被害者の格好をした人が本当の被害者を隠したり、苦しめたりしているのと同じことです。作者が、苦しい、と訴えている生の声から一つでも制作をしているとすれば、今回の報道・政治家・評論家・市民の批判発言等の騒動は、強者の論理で、弱者を封殺・苦しめているものです。そういう訴えを、なぜ、認めようとしないのか、甚だ疑問です。我々が、日常生活で体の痛みを感じて病院へ行ったら、そこが痛むはずがない・そこが痛むなんて聞いたことがない・それを訴えることは他にその痛みを経験したことがない人に失礼だ、として帰されることに近いと思います。今回の件は、とても酷いことだと思います。
 
追記
 録画した番組を見ていたところ、私の尊敬する者の一人、水谷修氏も、今回の作者を、論文にすべきだったとした上で、残念だ、というような趣旨の発言をされていました。テレビの前で、えっと思いましたが、ブログでは、きちんと中立論を述べていて、安心しました。
 ただ、通説・政府見解が唯一正しいもの、ということはあり得ない、正しさは、きちんと判断した上で決するべきと主張する私の立場と、まずは正しいとしてきたものを信じてみるとする彼とは立場が違うようです。ただ、彼の意見も分からないでもないですが。