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2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

科学と求められる道筋―科学の示すもの―

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 科学の大きな変化として、17世紀は、ガリレオ・ガリレイアイザックニュートン等の登場により、科学という学問分野が、大きな発展を迎え、人々に注目されるようになった時代でした。そして現在、科学は私たちをどこへ連れていこうとしているのでしょうか。宇宙的、科学的な理論を考えていることもあれば、一方で医療、環境、生活などの面で、身近な課題を解決しようとしていることもある科学。考えてみると、二ュートン力学、アインシュタイン相対性理論素粒子論等と次々に新理論が出されていきますが、それらが後になって否定されたりします。そして、技術面でも、自動車では、蒸気自動車からガソリン車、水素自動車へ。家事では、洗濯が手洗いから全自動へと変化に富み、様々に挙げればきりがありません。このように、理論も技術も新しいものが次々出され、次々に後ろへとやられます。では一体、その理論の・その技術の何が悪かったのかと考えてみたくなります。
 科学理論では、様々な前提を用いて、命題を理論化するという、科学的証明をします。つまり「何々は真である」ということ、よって、こういう結論が出される、というものです。前提が偽なら、その理論は真とはいえません。では、前提が真なら、その理論は、たった一つの真なのでしょうか。しかし、そうとも言えません。例えば「三角形の内角の和が180度である」ということは、証明されます。しかし、後に『非ユークリッド幾何学』が登場し「三角形の内角の和は180度と断定できない」とされました。つまり、凸状や凹状では、180度ではないとされたわけです。このように「ある前提で結論がこれも真、しかし、これも真」ということも「何々という前提が真なら何々」という「何々という前提」が逆の立場での真を提示することもあるのです。つまり、ある前提によって成立する理論が、その逆の理論をも、また、証明されるということが起こり得ます。ある事柄に対する可能性がどのくらいあるのかを探しているようです。よって私は、科学は次々に変わるのだと思うのです。
 技術はというと、その技術が完成品でないからだと、私は思います。今の技術よりも、いい技術へ、副作用のない技術へと技術は変化しています。しかし「完成品とはどのようなものなのか、普遍的な一番いい技術とは何か」という理想型がわかっていません。私たちの理想は、その時々によって翻弄されやすく、常に変化しているものなのではないでしょうか。だから技術の理想が見えてこないわけです。それにより、技術も変化すると思っています。よく「消費者のニーズにこたえ・・・」と言われますが、ニーズが変わるところに発展がある経済を考えれば納得できるでしょう。
 私は、科学というのは、理論面で、結局の所、何かの理論というとき、その事象の解明へ近づくことは近づくが、その確実な理論というのは、その確実な理論の定義と変わる科学論ということを考えると、みつけられないのではないかと思います。科学は、自然の事象を理論化することですが、自然が常に変化している複雑系の中での理論は、可能性が未知です。ゼノンのパラドックスではないですが「科学は先行する自然に追いつけない」のかも知れません。技術面では、人間の理想が次々に変化するということに惑わされながら、徐々に新しくなりますが、その中で限界を知るということに陥るのではないかと思います。
 私は、科学が、現在抱えている地球規模的な環境問題や資源問題を乗り越え、人類が歩んでいったとすると、その先は、宇宙開発・進出という、宇宙への視点の転換くらいにまで進んでいくのでしょうが、その後は、科学が、ひっそりと、理論の研究を続けているだけのような、科学ではない、新しいものが主役の時代が到来し、それがまた消え、また次の主役の時代ということになると思っています。そう考えると、科学は1つの夢を私たちに与えてくれたにすぎないのか、結局は振り回されただけなのか、と考えたくなります。どうにしても、科学がその夢をいかにして続かせるかが重要です。
 本来、科学というのは、真理を求め、真理を発見することにあります。それを見失えば、科学から自由はなくなり、科学は死をむかえることでしょう。つまり、科学は自由でなければならないのです。しかし、今や科学は自由ではありません 。経済や権力者の道具として、科学が密接となり、経済として、消費者にうけるようなものということで、便益を優先した文明の利器、権力者の道具として大型開発や兵器の製造というように、すべては、便益という一目的の為だけにつくられたわけです。
 それらが反動的な働きをしているのが、いま叫ばれている問題ではないでしょうか。ドイツの作家、ミヒャエル・エンデは『モモ』という物語の中で「文明の利器は時間を節約しているが、私たちは節約した時間を実感できていない。生活は短くなっている」と警告していますし、便益を追い求めても、長期的にみると、便利さゆえに、身体の退化をもたらすとも考えられます。大型開発による環境破壊は長く言われ続けていることですし、兵器の製造合戦は、人類を何度となく恐怖に陥れましたが、それを反省することなく、今日まで続いています。
 では、私たちは科学について、一体どのような未来を歩めばいいのでしょうか。
 まず、第一に科学の悪用をやめることと思います。科学の発見によって、技術が開発されていくわけですが、その過程で様々な副作用がわかることがあります。しかし、私たちは、その技術の大きさに圧倒され、副作用を後まわしにして、その技術を世の中で使用することがあります。途中で副作用がわかり、使用を中止したものに、アスベストやフロンなどがありますが、原子力発電のように、放射性廃棄物の長期間貯蔵や事故時の危険性等の悪害があるにも関わらず、技術の大きさに圧倒されて使用し続けているもの等もあるのです。このようなものは、完全な科学技術とはいえないのではないでしょうか。つまり、完成途中のものを技術の大きさに圧倒され、未完成のまま使用していると考えられます。そして、これらの悪害のない完成品を発見する科学の発展まで待っているということです。私は、このようなものを今すぐ止め、悪害のない完成品を待ってから利用すべきだと思います。
 第二に、環境問題は、全世界の代表が集まって話し合い、解決のための先行きを決めるということです。環境問題というのは、この複雑系の世の中では、様々な事柄が関連してきていますから、真空内での机上の科学ではなく、複雑系上での科学が求められます。影響は未知であり、地球的です。ですから、全世界がともに考えるべきなのです。私たちも、私たちの視点で考えるべきなのです。つまり、ある学問によってだけ考えるのではなく、私たちの視点で考えるべきなのです。現在は、科学というものが地球的問題によって疑われはじめたという、科学の挑戦時代ともいえる時代ですから、今が重要なことなのです。
 未来というのは、現在というものを踏まなければいけないのはいうまでもありません。現在の課題を乗り越えなくてはならないのです。私はこれまで、すべて受身形で取り入れてきた科学をもう一度、本当に必要なのかと考え直し、既存の経済としての科学、権力者の科学等を大きく見直す必要があると思います。科学をいくらでも、利用したいだけ利用するのではなく、科学を便益面とその反動面を考え、選ぶ科学をすることが必要なのではないでしょうか。私は、改めるべき科学応用が多くあると感じます。
 動物実験の批判や晩年の菜食主義、環境を悪化させる近代技術の拒否をしたという等、生命全体への畏敬を訴えた、フランスの哲学者アルベルト・シュバイツァーは「人間が自ら生み出した科学により消え去るとしたら、それは、人間が倫理的な生活を送っていないからだ。とはいえ、私は人類が存続し続けると思っている」と言ったといいます。シュバイツァー氏のこの言葉を無駄にしないためにも、私たちは、今一度本当に必要なものとそうでないものを大きく見直す必要があります。大規模開発は今後、発展途上国等でも、先進国になろうとすることで活発化してくるのでしょうから。私たち先進国の人間の反省はつきません。私たちは、私たちの社会の矛盾を反省し、それを自覚した上で未来をみなければならないと思います。
 21世紀の科学に求められるのは、理論面では、科学の自由さが経済や権力に利用されないことであり、技術面では、どこに理想型があるのか、道筋のはっきりした未来を示し、立ち止まって考える場をつくることなのではないでしょうか。