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2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

学力テスト批判―公表と公表による誤解―

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 私は、この学力テスト一連の事について疑問がわく。1つは「なぜ、正答率なのか」ということ。学力テストの意味とは「教師は教え方を自己分析し、生徒は学習活動や成果を自己分析することで今後に生かすこと」であり、それ以上のものではいけない。つまり、正答率ということで位付けが行われるのはどういう主旨なのだろうか。正答率が80でも、90でも、合格だろう。90がよくて、80はだめというのはおかしい。問題を出す側は、基準点を設け、達成点をつくることがより重要ではないか。達成されなければ、何が悪かったのか分析をし、今後に生かすようにする。達成できれば、さらに伸ばせるよう、分析する。それが重要だ。正答率では、地域間競争をあおるだけだ。学校ごと・自治体ごととひくくりにするのも本末転倒だ。一人一人が重要なのではないか。
 2つ目は「なぜ、公表なのか」ということ。文科省は、都道府県別の正答率を公表した。各自治体も正答率を、学校別・地域別等と公表するところが多い。これは一体何のためだろう。学力テストは、一人一人の学力向上のために行われる。それにも関わらず、大きな人数をひとくくりにして高い、低いとするのは愚かすぎる。各々の教育環境が異なっていることは事実だ。複雑系の中において様々なことを関連づけるのは誤解を生むことになりかねない。さらに学校別に公表されれば、学校選択制や予算配分と結びつき、少子化で余っている学校の統廃合が加速することも考えられる。通常の学校統廃合は、同窓会やPTA等との新たな火種を生む可能性が多々ある。しかし、地域住民の関心が大きい、地域別や学校別公表ならば、スムーズに事が運ぶかも知れない。これが文科省自治体の思惑なのだろうかとも思えてくる。よって、これも基準点を設けること、一人一人に重点を置くということを重視し、一人一人に応じた対応をする必要がある。成績上位をたたえる公表は生徒一人一人を蔑ろにしている。
 3つ目は「予算配分について」である。これは、言語道断も甚だしい。成績上位校でも、下位校でも、予算に大小をつければ、一人一人が蔑ろにされてしまう。1つの学校の中にも、わかる子もいれば、わからない子もいる。大きくひとくくりにして正答率をみても意味がない。
 学力テストというものは成績上位を狙うのを目的にしてはいけない。成績上位をたたえるものであれば、学力テストの意味を見失う。適度な競争が必要だというが、学校単位、自治体単位での競争は必要がない。学校での学習教育の目的は、生徒一人一人の学習意欲を引き出し、生徒一人一人が様々なことに興味を持ち、生徒一人一人が自ら学習する対象をみつけて自ら取り組むことであると思う。断片的知識の詰め込みや塾・予備校の行う受験型テクニックの教授では、子供は、学習の意味をみ間違う。学力テストのような一喜一憂の学力向上ではなく、子供の意欲を育む教育をすべきだ。