哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

いじめ論についての問題点

よく、いじめ論において、被害者が悪いという言い方がされることがあります。
しかし、これは大問題です。つまり、一般的に加害者が悪いのです。当然です。被害者は悪くないです。

被害者が悪いというのは、無理やりの苦しい論理でしかないんです。
よく考えてみれば「被害者の方が悪い」は、論理として成り立っていなく、それ自体で崩壊しています。
問題を簡単にするため、問題の多い学校でのいじめを取り上げてみたいと思います。
よくあげられる論理が「被害者には被害にあう理由がある場合がある」という意見です。しかし、いじめという行為と、そのもととなった理由の行為を一緒にして考えることが問題だと考えます。全くの別問題です。いじめの前に、その人が何かしていたということなら、その行為の善悪が問題になりますが、いじめは、いわば私的制裁(リンチ)です。前のその行為の善悪と、私的制裁の悪は別物ではないでしょうか。リンチ(いじめ)に至った時点で、そのものである私的制裁自体が悪です。そんな権利はないはずです。
 
さらに、いじめには色々な形態があります。無視というのもある。それは意味のないものであり、無駄と考えます。学校内で班でもつくるときは、どうせ入ることになります。学校は集団を基準とするものであり、個人ではあり得ません。例え、一人がいじめられているとしても、その一人は、どこかのグループに入ることになります。これは、先生等が適当に入れていくことになると思います。問題は、無視+αです。例えば、暴力等が加わる場合。このようなときは、人権の侵害です。明らかに加害者が悪いということになる。無視であっても、同調を呼びかけての無視の場合は、問題です。一方、友達がいないという形での無視の場合、されている側は、意味のない行動と思っていた方がいいです。学校という単なる一活動に過ぎないです。友達づきあいは、学校という活動での一活動に過ぎないのだから、勉強や学校行事等だけを真剣にやっていれば問題ないです。人付き合いは成長していくにあたってたくさんあります。それに、家族や親せきや近所の店の人、その他色々、世の中にはたくさんの人がいる。そういう人と話す方がいいかもしれないですね。なので、全く問題ないです。社会の常識とは何か、ということを押さえておけばいいわけです。それだけで社会で生きていけます。ただ生きていけるのではなく、社会で生きていけるわけです。しかし、では同世代の友達は必要ないかというと、そういうことではないです。一要素としては重要です。しかし、今ないからといって特に問題はないと思います。

その他、暴行や窃盗や詐欺については、言うまでもありません。加害者が悪いとしか言いようがないですね。
 
以上、いじめは被害者が悪い論は崩壊している、と言っていいのです。