コロナを契機とした新しい時代へと進もう―私案から―
現在、新型コロナウイルスが猛威をふるっている。
多くの方が自粛、又は業務が普段と異なるということで、
自宅にいる機会も多いことだろう。
自宅での自粛にしても、自宅での業務にしても、
外の世界とは、違った何かしらの不自由さを抱えているはずだ。
そういう不自由さを、どうにか最大限克服できないか、ということを私は考えている。
つまり、自宅の中でも、外の世界と出来るだけ同じようにするのである。
では、その不自由さの大きなことは何か。それは、私は画面であると考える。
どういうことか。
実は、自宅の中にいて、外と繋がるのは、
窓やベランダ、庭等からの景色等を除けば、情報通信機器の画面でしかない。
よって、その画面を外の世界に近づけるには、どうすれば良いかといえば、
まずは、その画面を大きくすることが考えられる。
それは、30インチのテレビくらいか、それより大きいかくらいだろう。
もちろん現状では、費用負担が大きすぎて、そうしたことは難しい。
しかし、今後こうした需要が増えれば、驚くほどの安い費用負担で、
例えば薄型のシート等に、くっきりとした画面を映し出し、必要な場合にのみ、
それを利用することが出来る。しかも、それが当然にパソコンに搭載される時代も、
すぐそばにきていて良いのである。そして、映画館とまではいかないが、
それの数分の1程の大きさのスクリーンを、自宅に出す。
Skypeなり、ZOOMなりで、他の人の様子をその画面にずっと出して繋げておけば、
それだけで、最早会社にいる感覚に近い。画面越しに会話も出来る。
又、友人とお茶をしたり、簡単な室内ゲームであれば出来る。
画面が小さいので、どうしてもテレビ電話感覚が抜けないが、
それは、画面が小さいからであって、又、画像が悪いからであって、
それが何倍も大きい画面で、くっきりした像ならば、そうした違和感が緩和される。
そうすれば、外の世界との差は、縮まると思うのである。
こうしたアイデアは、様々あるし、出てくるだろう。
多くの人が、具体的に、そうしたアイデアを共有し、ポストコロナを考えるべきである。
それは、政府主導などでは、到底出来ない。こうしたアイデアというものは、
必要に迫られて出てくることが多く、それがよりよいアイデアとなりやすい。
この新型コロナウイルスを、ただの早く過ぎ去ってほしい災禍とだけせず、
どういう形になっても、問題ないのだ、この社会は、というような状態にもっていくこと。
これが、これからの時代、いや、進歩すべき時代・社会にとって良いのではないだろうか。
多くの方が自粛、又は業務が普段と異なるということで、
自宅にいる機会も多いことだろう。
自宅での自粛にしても、自宅での業務にしても、
外の世界とは、違った何かしらの不自由さを抱えているはずだ。
そういう不自由さを、どうにか最大限克服できないか、ということを私は考えている。
つまり、自宅の中でも、外の世界と出来るだけ同じようにするのである。
では、その不自由さの大きなことは何か。それは、私は画面であると考える。
どういうことか。
実は、自宅の中にいて、外と繋がるのは、
窓やベランダ、庭等からの景色等を除けば、情報通信機器の画面でしかない。
よって、その画面を外の世界に近づけるには、どうすれば良いかといえば、
まずは、その画面を大きくすることが考えられる。
それは、30インチのテレビくらいか、それより大きいかくらいだろう。
もちろん現状では、費用負担が大きすぎて、そうしたことは難しい。
しかし、今後こうした需要が増えれば、驚くほどの安い費用負担で、
例えば薄型のシート等に、くっきりとした画面を映し出し、必要な場合にのみ、
それを利用することが出来る。しかも、それが当然にパソコンに搭載される時代も、
すぐそばにきていて良いのである。そして、映画館とまではいかないが、
それの数分の1程の大きさのスクリーンを、自宅に出す。
Skypeなり、ZOOMなりで、他の人の様子をその画面にずっと出して繋げておけば、
それだけで、最早会社にいる感覚に近い。画面越しに会話も出来る。
又、友人とお茶をしたり、簡単な室内ゲームであれば出来る。
画面が小さいので、どうしてもテレビ電話感覚が抜けないが、
それは、画面が小さいからであって、又、画像が悪いからであって、
それが何倍も大きい画面で、くっきりした像ならば、そうした違和感が緩和される。
そうすれば、外の世界との差は、縮まると思うのである。
こうしたアイデアは、様々あるし、出てくるだろう。
多くの人が、具体的に、そうしたアイデアを共有し、ポストコロナを考えるべきである。
それは、政府主導などでは、到底出来ない。こうしたアイデアというものは、
必要に迫られて出てくることが多く、それがよりよいアイデアとなりやすい。
この新型コロナウイルスを、ただの早く過ぎ去ってほしい災禍とだけせず、
どういう形になっても、問題ないのだ、この社会は、というような状態にもっていくこと。
これが、これからの時代、いや、進歩すべき時代・社会にとって良いのではないだろうか。