哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

臓器提供と死刑囚 ―学として本気で考える死刑囚の臓器提供問題―

この問題を考えた諸君は、
おそらく、感情的に思い至ったか、
学問的に気になったか、ふと感じたかであろうか。
 
さてこれは、気持ちとしては分からないでもないが、
実は、色々な問題点を抱えていて、メリットとデメリットを比較すると、
デメリットが大きいと解される問題なのである。

論点
第一に、憲法違反の可能性が高まる。

残虐な刑罰を禁ずる憲法上の規定がある(憲法第36条)からである。

私は、臓器提供を残虐ではないと解する者ではあるが、
人権侵害であるという意見も根強くある。
罪に関係のない、思想信条や自由権の侵害として、
それらが残虐な行為であるとするものである。

第二に、そんなに死刑囚はいない。
臓器提供を求める患者様(待機中の方)は、
2017年時点で、全臓器で約1万人を超えている。
世界に直せば、もっと数は多い。
さらに、死刑囚の年齢も高く、適切とは言えない問題もある。


第三に、絞首刑では難しい。
現在の日本の死刑執行方法である絞首刑は、
臓器移植において、損傷の程度等から、適さないとされている。

第四に、松田幸則元死刑囚の意思表示例はある。
実際に、臓器提供の意思表示をした死刑囚がいるとされている。
松田元死刑囚である。薬物注射にして、臓器提供を意思表示したという。
よって、この問題自体の設定は、決して感情的であったり、
人権侵害的なものであったりというのでは、一切ない。

現実に静かに起こっている事柄なのである。


第五に、対社会の無差別殺人が増える可能性。
後先考えず社会への恨みでもって、罪を犯し死刑判決を受けた者。
もし、そういう予備の輩が、最後に社会に貢献できると考え、
社会に疑問を投げかけるためだとか何だとか理由をこじ付け、
犯罪に及んだ時。それは、この問題の実行こそ、
犯罪を駆り立てる要因があったということになりかねない。
つまり、本末転倒になる危険性は少なからず考える必要がある。

例え、死刑囚が臓器提供をしたとしても、

それで罪が許されるはずはないし、亡くなった被害者は戻らない。


つまり、メリットは唯一、
臓器提供を受けられる人が増える(ほんの少し)ということである。
しかし、死刑囚の多くは高齢だ。使える臓器も限られている。
デメリットは、人権問題、犯罪増の可能性等がある。
よって、若干臓器提供が増えるとしても、
大量殺人等の犯罪が増えては、社会全体としては、もともこもない。

そもそもが、罪を犯さないことが人としての前提とすれば、
その罪の結果に期待するのは、又はその結果を考えるのは、
反社会的であって、良くないと解される。

一部の国、中国や台湾では導入されている・されていたという話もあるが、
国際社会等において、この問題が批判されることはあっても、
気運の高まりがないのは、根強い問題点を抱えているからであり、
メリットは少なく、デメリットが大きいことを物語っている。
これが重要だ。機械的にダメでなく、総合的に判断してダメなのである。



因みに私の姉は、私が生まれる前、心臓の病で数年の命を閉じたという。

当時、父母は知識がなく何も出来ず、姉は病院で亡くなり、解剖も拒否。

今から約30年以上前。原因は不明だ。

現在は、そのようなことはないだろう。医療も進み、治験も進んでいる。


そうした医療状況・社会状況等を踏まえるに、
この問題をしっかりと捉えておくことが重要である。
これらは、決して感情的でも、人権侵害的でもない。
真の学問としての見解である。