掃き溜めに鶴ということ―素晴らしい人の親切と私―
「掃き溜めに鶴」という言葉がある。
ネットの辞典によると、「つまらないものの中に飛びぬけてすぐれた者や美しい者が混じっていることのたとえ」らしい。
有象無象の中に、たまには良い人、優しい人、素晴らしい人がいる。
かつて膝を怪我して、トレッキングポールを使っていたとき。
電車の中で、席を譲ってくれようとする中年の男性。
電車の中で、席を譲ってくれようとする中年の男性。
立ったり座ったりが負担なので、丁重にお礼して断ったが、何とも素晴らしい。
それに、そこは優先席でも何でもない普通の座席である。
世の中、捨てたものではない、と思った。
明らかに、私よりも年上であった。
人生、席を譲られたのは数える程しかない。一生の思い出である。
トイレの列に並んでいたときも、譲ってくれた人がいた。
この時は、若い男性だったか。
私は自分自身、お世辞にも、カッコよくはないし、可愛くもない。
なので「小さい子供だから」「可愛いから」という同情では全くない。
はたまた、これらは当たり前の行動でもない。その一歩先の行動である。
当たり前の行動は、何もしないことである。これで当然なのだ。
辛かったら、優先席がある。そういう人のためにある。
優先席でそういう人に譲らないのは、意見が分かれるが、
当然一般の席では、ルールとしては譲る必要性はない。
又、トイレも、並んでいるのであって、順番がある。
どちらも、命に関わることでもなしに、譲る必要はない。
「小さな親切」という言葉があり、公益の法人のようなものもあるが、
よって、当たり前のことをしたのではなく、その一歩先と言える。
「小さな親切」という言葉があり、公益の法人のようなものもあるが、
全然小さくないと思う。本当に親切な人は、見えない所にいる。
尾畠春夫さんのような方々が、様々な分野に、実は多くいるのではないか。
しかし実際に、これを行うのは非常に難しい。中学生の頃である。
友人と2人で交差点にいると、交差点を渡っている車椅子の方がいた。
信号が変わっても、まだ渡っている。渡り切れていないのだ。
さらに、段差で引っかかっていて、中々上がれていない。
私と、その友人は、押して上げてやった。
その後「大丈夫でしたか」等、何らなの言葉を掛けた。
しかし、車椅子のその高齢と見える男性からは、睨み付けられたのみ。
一言も言葉を発せずに無言で通り過ぎていった。そういう経験がある。
その時は、非常にショックを受けた記憶があったが、
少し傲慢だったかと反省している。
又、席を譲って、怒られたという経験をした人もいるという。
「まだ、そんなに年をとっていません」と。
中には、私の知り合いの哲学の先生のように、
そういう親切は不要とする考えもある。
座ることは、楽をすることである。なのだ、譲る必要はないというのだ。
つまり、座って楽することで、逆に筋肉を使わないことになってしまい、
それが将来的に、お年寄りであっても、筋肉がなくなり、大変になってしまう。
だから「相手のためにも、譲る必要はない」というのがその方の意見である。
あくまで一意見で、親切を受ける受けないは、その人の自由である。
中には、親切を受けて、逆に怒鳴る人もいるだろう。
しかし、良いのではないか、そうされても。
ただ、親切をする人は、そういう経験もしてきているはずであるし、
そうでなければ、いつかは経験することだろう。
ただ、行動する。そういうことを考えずに。これは、中々できない。
だからこそ、そうした親切は素晴らしいのではないか。
尚、断っておきたいが、自分自身は、こういうことはできない。
なぜなら、世の中良い人ばかりではない。悪い人もいるからである。
私は、悪い人に便益をもたらすのを心底嫌うから、できない。
私は、優しい人・良い人・頑張って生きている人には、とことん親切にしたいが。
自分が良い人になって、この世界に良い人を、一人生産する。
吉野源三郎著の『君たちはどう生きるか』にも出てくるテーマである。