哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

「自分に厳しく」は不可能で危険 ―「自分に甘く、他人にも甘く」の推奨

完璧な人間などいない。皆、誰でもだらしがない。
私は「自分に甘く、他人にも甘く」がいいと思う。

よく「自分に厳しく、他人に甘く」が、人間の理想形であるという見解がある。しかし、それは、実際問題として不可能である。

他人に甘くしたり、厳しくしたりすることは簡単だ。自分に甘くすることも簡単だ。しかし、自分に厳しくすることは不可能である。もしも、それができると考えているならば、非常に危険である。なぜなら、そういう人は、ストレスを抱え込むからである。ストレスは、抱え込むと、いつかは、爆発することがほとんどである。爆発の仕方としては、暴力の場合もあるし、自分を責める場合もあるし、反社会的な場合もあるし、グレる場合もある。以下、なぜ、自分に厳しくすることが不可能か説明したい。


「自分に厳しい」というのは、達観したお坊さん(達磨のような)ならいざ知らず、一般人には到底不可能なのである。なぜなら、好きな物を食べること、好きなことをすること、怠けること、遊ぶこと、旅行すること、お金を儲けてそれを自分のために使うこと等々、その全てが自分を甘やかすものだからである。

最低限の食事、例えばご飯だけ。ご飯と塩だけ。おかずはなし。栄養の最低限。それ以上の贅沢はしない。肉が食べたい、野菜もこれが良い、魚も食べたい等というのは、ダメである。もちろん、酒もタバコも不可。ジュースも飲む必要はない。これらは自分に甘い。水がある。つまり、食事に関して言えば、必要のないものは全くとらないことである。

そして、何がしたいもダメで、この仕事がいい、こういうことをしてみたいもダメ。疲れたから、就寝時間まではまだ早いが、眠いので寝るもダメ。全てを受け入れて耐える必要があり、それこそが自分に厳しいということになる。遊びたい、今日は友達と話すも、相手から言われる以外はダメ。ストレス解消等といって、運動したり、ゲームしたりするのもダメで、娯楽すらダメである。当然、全て自分で動く。

これこそ、自分に厳しいである。
しかし、そんな人を私は知らない。お坊さんだって、大きな寺等でなく、小さな家賃の安くボロボロな家に住まわなければならないだろう。自分に厳しいのだから、他人に講釈をするのもダメで、自分にはその資格がないと常に悟らなければならない。

よって、自分に厳しいなどということは、不可能なのである。

一部の酒を減らすとか、筋トレをするとか、そういう小さなことは、できるだろう。しかし、それらは自分に厳しいことではない。部分的なものでしかない。人間は、自分に厳しくを完結させることはできないのである。これができると考えると、非常にやっかいである。人間は、ストレスをためる。その中でも「自分に厳しく」というのは、一番大きなストレスになる。人間は、社会の中で生きる動物である。群れるという欲求がある。その中では、人間は、社会のルールに従って生きていけば良いのである。そして、ルールがおかしければ、声を上げれば良いのである。

あえて、自分で新たな厳しいルールを作ることは、危険である。社会でも、厳しすぎるルールを与えられれば、人は反発する。反発できないくらいの厳格なものであれば、人はそこで追い詰められて病んでしまう。これは、ルールの怖さでもある。

自分で自分を縛る厳しいルールは、どこで生まれるのか。
それは、思考の中で生まれる。紙に書いて決めるものではない。自らの思考として、そういう思考になってしまう危険がある。その思考は、思考だけに留まらない。人間は、思考だけで生きてはおらず、行動もする。行動の中に思考の結果があるのである。よって、蓄積していくと危険になることになる。

この社会は、ストレス社会といわれる。その社会では「自分に厳しく」と考える人が多い。しかし、それは達成できないものであるから、目標とのギャップに人は悩み、ストレスを抱えてしまうのではないかと考えられる。目標とのギャップは、目標が大きいこと、今の所が大変なことの両方が広がることで拡大する。しかし「自分に厳しく」など不可能なのであるから、部分部分は努力するとしても、気持ちとしては「自分に甘く」が重要なのである。


よって、気持ちの持ちようとして「自分に甘く、他人に甘く」を推奨したい。