哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

信じられる自白とは何かについて ―旧・今市市の事件についての一考察―

2005年に栃木県今市市(現:日光市)で、小学1年生の女児が殺害された事件。
勝又拓哉被告人は、本日、東京高裁(藤井敏明裁判長)で、無期懲役と判決された。

自白偏重で、冤罪事件であるとも報道されている同事件。
私は、この事件が冤罪かどうか分からない。
怪しい部分もあるし、そうでないい部分もあるので、非常に難しい。
しかし、一つ、何ともしっくりこないところがある。

それは、自白というのが「やりました」ということを吐かせるケースだからである。
私の考える本来の自白は、この場合
「凶器がどこにあるのか」「どこに被害者の物を捨てたのか」ということの自白である。

「食事させない」「寝かせない」等と、捜査関係者が自白を迫ったというが、
それで「やりました」を吐かせるのは、何ともお粗末ではないか。
見つかっていない物品の在処等、他に加害者しか知らない自白させるべき所が
山ほどあるはずではないのか。

「やりました」というのは、誰だって言える。創作もできる。
しかし、発見されていない物品が分かるのは、加害者を除いていないだろう。
こういうのを、信じられる自白というのである。

まさか、捜査機関が探し出した後に「自白があった」等の隠蔽をしないことは、
当然の前提であるが。捜査機関も、鬼ではない。最低限の良心はあるはずだ。
又「四知」という言葉もあるが、捜査関係者という者、良心のある者も多い。
その良心のある者から、漏れるものである。

よって「やりました」の自白偏重は、この場合、必要なのかどうか。
もし、捜査機関が必要だというのなら、取調べの全過程の録音・録画をすべきである。
「信頼関係があるから全過程は不可」と、可視化の議論で話した元刑事等もいたが、
そうであるならば、反社会的勢力等の関係以外は、可視化できるはずである。

全て可視化すれば、自白偏重といっても、加害したことを認めて自白したのか、それとも恐怖や命の危険等から、自白を強要・強制されているのかが、分かる。そこまでしない限り「やりました」型の自白は、他の証拠があって客観的に間違いないと認められるならいざ知らず、意味をなさないのではないか。

殺人事件は、絶対にあってはならない。絶対に許してはならない。
だから、尚のこそ私は、真犯人を逃すことがあっては決していけないと思っている。
冤罪は、真犯人を笑顔にする、とんでもない罪である。
それを、絶対に忘れてはならない。