哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

学歴 ―学校歴の実質的価値とその信奉者―

 学歴とは主に、最終学歴である学歴(中卒、高卒、短大卒、大卒、大学院卒等々)と、その学校のランクなるものである学校歴(○×大学卒、▽△大学卒等々)があります。

 これらは、どちらも、その高低だけでその人物を判断できるものではありません。良い評価の基準にはなっても、悪い評価の基準にはなりませんし、なってはいけません。特に、学校歴は非常に独善的な価値判断です。

 そもそも、頭のいい人は、その位のレベルに合った学校、頭の悪い人はその位のレベルに合った学校へ行くべき、というような法など存在していません。
 もし、ある人が「皆そう考えているから社会ではそうなるはず」と言うならば、そう考えていない人を無視した独善的な価値判断ですから、認められません。皆がそう考えているわけではないのです。強く考えている人、少し考えている人、全然考えていない人がいて、大多数は少し考えているタイプの人でしょう。
 ただ、正当性があるのは全然考えていない人だと思います。前回の心理学でもお話ししましたが、統計的には、そういう傾向はある「かも」知れない。ただ、それを基準とすることは、一つの評価対象として、偏った見方であることが多々ある、ということです。

 中卒でものすごく頭のきれる人格者もいれば、有名大学卒で頭の鈍いというか愚かな人物もいます。前者を挙げるのは「頭のきれるとは何か」「人格者とは何か」といった価値判断が入るので難しいですが、後者を挙げるのは、すごく簡単でしょう。多くの方がテレビ報道等で、有名大卒の人物が逮捕されたり、不当ではないかということを、既に知っておられるのではないでしょうか。それが「単なるごく一部」と言っても、彼らは学歴というところから見れば、そういう人たちに評価されてきた人物に他なりません。

 つまり、本当は、その人がどんな人なのかということは、様々な要素をもって、きちんとみてみないと、その人物がどうかということを判断できないわけで、それが当然でしょう。それを単に学歴だけで判断するのは、やりすぎだと思います。
 特に学校歴。統計的に何か有意性があったとしても、あくまで統計なのでやめるべきです。なぜなら、この問題に関して言えば、他の学校へ行っても何の悪いこともないのです。そこで学びたいなら、どこでもいいのではないでしょうか。学校歴ということで評価を下し限定するのは、予備校講師の受験の難易度分析ならいざしらず、社会的に評価することは、甚だ疑問です。

 
現在の日本において、学歴の固定観念がある程度通用していることも事実ではあります。「石を投げれば学士に当たる」と言われるくらい、日本の高学歴化が進みました。それに伴い、学歴から、学校歴にウエイトが置かれてきているのが現代社会で、より頭の固い状況が進んだようです。
 昔の学歴(先程も書いたように、中卒や高卒、大卒などの区別)というのは、勉強の高等さを表すものとして、不完全さがだいぶ露呈した状態ではありましたが、50歩100歩としても、学校歴よりは、ある程度の説得力をもちました。しかし、現代の学校歴は、やっかいで単なる偏見です。


 付け加えると「効率的判断だ」という反論もあるでしょう。しかし、誤った判断の可能性が高いものを「効率的判断」とすること自体が語の誤用です。効率的ではなく、手を抜いて誤りをおかしているにすぎないわけです。学校歴抜きにして、他の要素で一人一人を関係なくみても、学校歴だけでみても、それだけの差を生ずることはないはずです。もし、そこに差が生ずるならば、それは学校の差ではなく、学生毎の差であって、そもそもが一括りにすべきではありません。
 又「学生の勉強に対する意欲になる。勉強の成果で望ましい」という反論もあるでしょう。これについては、そもそもが、入る前に努力するよりも、入ってから努力することが必要です。確かに努力をしたことは認められてしかるべきですが、学校歴で認めるのではなく、あくまで行った勉強について認めるべきなのです。その上で、入ってからいかに立派な研究をするか、立派な論文を書くか、立派な業績を上げるか、ということが、何倍も学校歴よりも重要だということなのです。


 さて、これは昨年、ニュース等で報じられたところですが、某大手グループの一角をなす某銀行が就活セミナーの席の予約にて「学歴フィルター」を設け、学校歴で学生を区別していたということが話題となりましたが、このような差別は、正に社会の隅にまで広がっているのが現実です。

 しかし、そのような人に対しての疑問が出ていていることも又事実でしょう。つまり、学歴を過信しすぎたための失敗例が多く出てきていることです。世の中のふざけた学校ランクによる、こうあるべきだという固定観念に縛られることは、失敗のもとになるのです。


 例えば、頭がいいというイメージとして、日本の大学で世間的に上に位置づけられている東京大学があります。海外には、大学ランキングで、東京大より上のハーバード大学があります。では、ハーバードの学生が一番いいかというと、その上に、ハーバードの教授陣がいて、その上に・・・・・となりますが、これは果たして正しいのかということを考えると、明らかにお粗末すぎはしませんでしょうか。
 又、学歴主義の失敗ではないのか、ということとして、官僚の不祥事・財政私物化問題(ほぼ彼らは世間で言う高学歴しょう)、有名大手証券会社への批判集中と倒産(数年前に世界的な金融危機を起こしたことは記憶に新しいでしょうか。所謂、サブプライム問題です。この彼らも優秀とされていた連中です)、世間でいう有名大学の学生による相次ぐ薬物事件や猥褻行為等々の不祥事、その他あげればキリがないです。このような人たちは、愚かではないのでしょうか。「頭がいいのだから、しょうがない」というつもりなんでしょうか。
 社会に迷惑をかけた、あるいは大学に迷惑をかけた、という世間でいう高学歴な人たちよりも、平凡で社会から低学歴と言われているかも知れないけれども、きちんと生活をしている人たちの方が何倍も立派であり、尊敬に値すべき人ではないでしょうか。


 行き過ぎの例として、例えば、ある大学を頭の悪い大学(ネット上でFラン等と揶揄される)と空虚な論拠で言うことが一部で見受けられます。それは、その大学以下の大学(世間的ランク)の全てを敵に回すようなことであって、空虚な論拠で何の責任も感じずに、それを平気でいう人がいることに驚かされます。

 つまり、愚かや利口は、学歴や学校歴では、ほとんど分かりません。

 100歩譲ってみるならば、大学でも、授業が成立しない学校もあると聞いたことがあります。よって、この学校は、自分に合ったまともな授業が成立しているか、という意味では、使い道によって学校歴がある程度は参考になるかも知れません。しかし、実際に行って、みてみないと分かりませんので、どちらにしても、行ってみてみるべきで、それから判断すべきでしょう。
 そして、人については、きちんとした論拠でみるべきであり、学歴は、参考にぜずに見極めて頂きたいものです。ましてや、就職活動の際のフィルターであったり、人の良い悪いの評価であっては、決してあるべきではなく、国などの公共機関が行えば、それは憲法14条1項の法の下の平等に反する行為です。そういう不当で非論理的な曲がったものさしは、捨てるべきではないでしょうか。