哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

哲学を考える―友人が自宅に来て、人殺しが追ってきた場合―

よくある哲学的な問答に、
友人が自分の家に逃げ込んできた。そして隠れた。その後、人殺しがあらわれ、自分に対し、友人がどこへ行ったのか、と尋ねたというもの。
 
長年、嘘をついてもいいのかどうか、ということが争われてきた。哲学を深く解すると、本当のことを言わなければいけないとか、又、その人を騙すような本当のことを言えば、嘘にはならないから自分の哲学も貫けるとか。
一方で、嘘をついて、ここには来ていない、ということもよい、とか。
 
ただ、私は、そういう回答をしません。
私の方法は、もし、そういう状況になったら、黙秘する、ということです。なぜなら、答える義務はないのですから。なぜ、応えなければいけないのでしょうか。人殺し、殺し屋が家に来た。まず、私は、許可していませんよね。つまり、不法侵入です。よって、どこへ行ったかを応える前に、あなたは不法侵入をしているので、立ち去って下さい、と応えるべきなのです。なぜ、応える必要があるのか、まず、それを正します。そして、もし、知っているとしても、そもそも、義務は何にも存在しないので、教えるかどうかは、自由な判断に委ねられるべきなのです。
 
もし、それも出来ないような自分が殺されそうな状況であれば、嘘であろうと、本当のことであろうと、そういう判別が出来ない状況なわけですから、どういう行動をとったとしても、道徳的に、何の落ち度もないわけです。つまり、悪いのは、人殺しなのであって、自分ではないのです。そのような強制を迫った人殺しが悪いのです。よって、嘘をついてよいかどうかは、問題になりません。どちらでも同じだからです。
 
分かりやすい例で言えば、自分は、きちんと立っているのに、後ろの人に押されたことによって、前へ行ってしまうようなものです。つまり、悪いのは、後ろの人であり、自分ではないのです。先の場合で言えば、人殺しが正しい判断が不可能な状態で、そういう状況であると認識しながら、迫ったわけであり、その人には、何の意味もないのです。つまり、その人でなく、それが機械であっても、他のものであっても同じことです。操作をしているのは、人殺し、ということなので、その人の道徳が問われる問題ではないのです。
 
皆さんは、いかが思われるでしょうか。