哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

第二:少数の犠牲か、多数の犠牲か

概要:1、線路が2手に分かれる所での、路面電車の暴走。先には、5人の作業員がおり、犠牲となる。ハンドルを切れば、1人の作業員が犠牲となる。
2、路面電車の暴走。先には、5人の作業員がおり、犠牲となる。隣にいる男を突き落せば、その男が犠牲となるが、5人は助かる。
3、アフガニスタンで、特殊部隊3人が偵察中、2人の農夫と少年に出会う。見逃すか、殺すか。彼らが武装勢力に知らせれば、部隊員は殺害される。殺せば・・・。結果として、見逃すことに。そして後に、部隊員2名殺害、1名重傷、十数名の救助隊が撃墜されることとなる。
 
立場:1、ハンドルを切る・切らない
2、突き落す・突き落さない
3、見逃す・殺す
 
私見:1の例では、ハンドルを切る。2の例では、突き落さない。3の例では、自らが軍人であるのだから、殺す。自らが軍人でなければ、見逃す。1の例では、ハンドルを切るのも、切らないのも、犠牲になることは間違いない。しかし、その被害を出来るだけ小さくしたいと思うのであり、一般的に切るのが正しいだろう。しかし、切らなかったからといって、批判されるべきではないと考える。なぜなら、どちらも、犠牲は生ずるのであるからである。そして何より、その人物が、自分の知っている人であったり、子供であったりすれば、行動が違くなるかもしれないから、一概に、切ること一点を正しいとは言えないのである。この場合では、どちらも同じ人物ということを前提にして、切ることが、一般的には犠牲を少しでも少なくしたいという観点から、正当性があると考えている。 
2の例では、線路上という、危険が予知できる場所にいるわけではない者を他者の幸福のために、強制して危険に巻き込むことは、正当性が全くない。線路上にいる人は、危険はないと思っているいないにかかわらず、線路上ということを認識しているわけである。よって、線路上にいる者と、そうではない、ただ横にいる全くの第三者とは状況が全く異なるのである。よって、突き落すことは、認められないと考えられる。 
3の例では、軍人であるなら、殺す。第一に、少しでも可能性があること。第二に、言わないまでも、言わないと殺されてしまうような状況に至った時には、言うか、殺されてしまうかであり、そこで殺されてしまうのであれば、どうしても殺されてしまうのである。よって、軍人であれば、危険性が身に迫ってきているという状況であるならば、総合的に考え、殺すことが正当性がある。そもそも、それが仕事なのである。殺すか、殺さないで自分の身が危険になる可能性を選ぶか、ということであれば、殺すのが軍人の論理であり、軍人であるならば、それが正当性を持つ。可哀想などというのは、戦争状態においての、危険が迫っている状況での判断としては、必要ないものであり、軍人としては、殺すことが正当性があるのである。しかし、一般人の立場であれば、見逃す。なぜなら、自分たちが殺される心配が少ないことと、その可能性があっても、仕事で人を殺すことを常としているのではなく、自分自身が何の武装もない他に危害を与えない者だと、他者にも容易にわかっているからであり、かつ、分かるからである。無防備の状態の人間を武装して殺すことは、最大の罪である。よって、そこは、軍に対処して頂くことになる。そもそも、一般人が、3人を捕えるというような、そういう状況になることはないと思われるが。