哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

天才と秀才について考える。

 私は、天才は、0から1を生み出すことのできる人だと考えています。一方、秀才は、勉強がものすごく出来、理解力が早く、情報処理がすごく出来る人だと考えます。
 
 そして、勉強は、資格・試験の勉強など、いわば、答えのある練習だと考えます。学問とは、研究など、問題解決のために、思案していくことで、いわば、答えを探す究明作業だと考えます。
 
 そう考えると、一般的に、なりやすいのは、秀才です。一生懸命勉強をすればいいからです。努力して勉強すればいいのです。ただ、その努力が出来るか出来ないかで、秀才になれるのかなれないのかが、決まってしまうかも知れません。
 
 天才は、秀才とは異なり、勉強が出来る出来ないにかかわりなく、発想力・創造力です。もっと言えば、解決力ともいうべきもので、秀才たちが大勢で思案しているところで、一つ、正当な解答を持っているということだと思います。答えを探していく探究作業で、一つの道筋を考えつき、それを追い求めていくのだと思います。
 
 そこで、問題なのは、天才型の人間が、猛勉強すると、その才能が失われはしないか、という点、もう一つは、どうやって天才が生み出されるのか、という点です。
 
 第一の点については、勉強のみに走ってしまうと、失われてしまうのではないか、と思います。なぜなら、脳で、勉強が出来るための訓練がなされてしまい、そういった回路に脳が作り変えられてしまう・そういうふうに脳が訓練されてしまうのではないか、という考えからです。しかし、現実問題として、勉強しなければ、良しとされない世の中なわけです。学校でも、仕事でも、情報処理能力という勉強力が大方、重視されます。学生、中堅社員以下では、反復作業が重要な要素です。よって、勉強しないというのでは成立しない社会です。勉強しない人・覚えない人・言ったことをしない人は、落ちこぼれであり、会社では使えないとのレッテルを張られてしまいますし、発想力と創造力をアピールしたところで、何にもなりません。ある程度の知がないと、0から1を生み出す人は、何にもならなくなってしまい、そこが難しいところです。自分で天才型だと思う人は、日々、自身の思考回路は、きちんとはたらくかということに思いを巡らせて、知識を増やす必要があるのかもしれません。
 
 第二の点については、自身のこれまでの境遇の中で生み出されるのだと思います。つまり、頭の柔らかい人だということです。頭が柔らかいと言っても、IQが高いということではありません。むしろ、IQなどは、多少の分野以外に限っては、意味があまりないのではないか、と思います。なぜなら、IQは、一面的でしか測定しておらず、あらゆる能力の把握に欠けるからです。天才型の能力の根本は、そこで測れないところに、あるのだと思います。それが0から1を生み出す力で、それは、どうやっても、測れないのです。たとえ、紙を渡して、何か書いてみろとしても、そこには、様々なノイズが入り込み、測定はできないと考えます。よって、IQなどで測定することは、今の技術では無理だと思いますし、将来でも怪しいところでしょう。

頭の柔らかい人というのは、先入観や思考回路の固定が少なく、何でも考えていく人だと思います。誰かから習ったことではなく、自分が先駆者というように動けている人です。真似でなく、自らが、自らの頭で動くのです。それがどんな境遇を経ればいいかというのも難しいのですが、真っ新な状態で、自らに自信・プライドを持つということや、ずっと同じ固定された考えの中で生活をしていない、ということが重要だと思います。
 
 いずれにしろ、非常に難解な状態です。これが正しいのか、間違っているのかも分かりません。又、秀才型・天才型・一般型に属さない、第4、第5の道もあるかも知れません。そして、その時代時代の環境も大きいでしょう。天才型を全く重視しない社会もあるでしょうし、秀才よりも天才を重視する社会もあるでしょうから、時代の要請というところも大きいでしょう。