哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

「好き」ということは、感覚か論理か

ある人は、この人を好きであっても、他の人からみれば、好きではいないかもしれません。ある人は、ある理屈があって、その人を好きになりますが、他の人はある理屈があって、好きではないわけです。その理由がみんな違うわけで、よってそれは、感覚だと考えられます。
もし、理屈だったら、みんなが納得するはずです。しかし、どうしても納得できない人が存在する、ということ自体、それは感覚なのではないでしょうか。「顔が好み」「お金持ちが好み」「好かれてる人だから好み」「話が面白いから好み」というのも、その人の顔の好みという感覚、次も、その人がお金が好きだから好きという感覚、次も、その人が好かれているから好きという感覚、そして話が面白いという感覚。なぜ、顔が好きか、なぜ、お金持ちが好きか、なぜ、好かれている人が好きか、なぜ、話が面白い人が好きか、という問いかけに対して、それは、こうこうと説明できないわけです。「顔が好み」「お金持ち」「好かれてる」「話が面白い」だから好きというのが一番の答えです。それは、その人それぞれの感覚によるものと言えます。

なので、人を好きになるというのは、唯一の?表現できない感覚だと考えられます。
これには、多くの方が納得してくれるのではないでしょうかね。