哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

教養とは何か

某番組で「教養」がテーマのときがありました。あれから何年か。
そもそも、教養論の議論は古くから行われています。そこで、教養とは何かみてみたいと思います。
 
教養とは、主に3つの意味で使われているようです。

1つは、知識としての教養です。物理学・化学・数学・哲学・経済学・法学等々の知識総体としてのゼネラリストとしての知識です。つまり、様々な分野で知識・経験・技術等があるということです。
2つは、1つ目の意味から生じるのですが、そのようなゼネラリストとしての知識から得ている一般的な常識、たとえば、この学問においてはこのようにするのが学問上の掟とか、ここの業種の会社においてはこのように行動するのが掟といったように、その場・場面ごとにそれに合った対応を身につけていることです。これらは、ゼネラリストとしての知識などから出てくるものです。
3つは、品格との混同の場面です。2つ目の意味に加え、より精神的、つまり、人間観としての卓越性を求めます。以上2つのことを理解した上での自らの行動のあり方の正しさです。これは、人・社会によって求める像が異なります。一般的には、西洋的な求める像が用いられます。

以上が「教養」という言葉の意味ですが、教養とは本来「耕すこと」なので、自らがたくさんの知識を得て頭を使っているということなら、1つの教養です。3つ目の意味では、人・社会によってイメージが異なりますので、自分なりの知識全体からのイメージを持っていれば、動じる必要はありません。その動じない心・知識こそ重要な教養だと思います。
「教養がない」とは、具体性に特にできないので、批判の言葉として安易に使われることがあります。ある批判を言い換えている(単純化している)ことがあるわけです。
 
このように「教養」とは、様々な意味合いで使われているわけです。