哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

他人との繋がりと比較―意味のない絶望へ向かう人々―

以下は、ヤフーの知恵袋で、私がある方に回答した内容を少し改訂したものです。多くの人に当てはまるかも知れないので、書きました。

ただ、他人と繋がりたいのなら、例えば、何か趣味をもって何かしてみるとか、又は、様々な朝活とかの勉強会とか、そういう活動をしている人の中に入るとか、様々な方法があります。

そういう中で、少しずつコミュニケーションをはかっていったらいいと思うのです。休日に、一人で映画を見に行ったり、美術館や博物館にいくのもいいと思います。そうすることで、一人で行動し、楽しむという余裕が出てきます。意外と一人で行っている人も多いです。

友達がいない人は沢山いますし、又、友達がいても、肝心な時に何にもならない、ただの携帯電話の電話帳用の人、飲み会等と称し「単に自分一人の場合より高いお金を出すことになる会」でしか会わない人など、多くの人がそんな感じの友人関係だと思います。

自殺は、その人の問題ではなく、社会の問題だと思います。つまり、人間は生物ですから、自分から死にたいなんて考えません。死にたいと思って生まれてくる赤ちゃんなんて、いません。皆、生きたいと思って生まれてくる。しかし、生きていく中での様々な環境が一人一人に影響し、死にたいと思う人が出てきます。しかし、それは、すごく不幸なことです。なぜなら、そのような環境によって、騙された結果がそういう考えだからです。人は、死にたいと思うわけはないのに、死にたいと思わせてしまったということです。よって、そういう人は、世の中の仕組みや全体像をしっかりと理解し、そういう考えから脱却すべきだと思います。

私の人生観は、吉野源三郎著の『君たちはどう生きるか』にある「僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を1人この世の中に生み出すことは、僕にでも出来るのです」という言葉そのものです。
他の人なんか、関係ない。自分自身がいい人間となり、世の中で生きる、それにより、多くの悪い人がいる中で、いい人間が一人世の中に生産されている、ということ。これが人生だと思います。

生物である以上、能動的に死を選択することは、損です。そして、それは、世の中の仕組みをきちんと理解していない選択でもあります。

冒険家の白瀬矗は、極地において、命をかけて進むべきか、それとも引き返して批判を浴びるのかという時、引き返す決断をした上で「死は努力の終極ではあるが責任の終極ではない」と言いました。多額の支援をしてもらいながら、何も成果をあげることが出来ずに批判を覚悟で戻る苦悩と、突き進んで命がけの勝負することを考えた末、引き返す決断をしました。死は、努力としては終了するが、責任は終了しない。死をもって責任を償うということはあり得ないと白瀬矗はしました。尚、突き進んでいった海外の組は、亡くなったそうです。

生物である以上、人間であるからこそ、生き抜いていくべきなのです。