靖国参拝について―首相など権力者の靖国参拝問題―
靖国神社は、例えば、東京大空襲の犠牲者の方とか、原爆被害者の方とかは、まつられていない。つまり、靖国は、戦争犠牲者全体というよりも、特に、国のために尽力し、命を落としてしまわれた方をまつっている。国のために尽力し、命を落としてしまった方のために、総理大臣自ら靖国神社へ行くということは、国のために命を落とす状況にしてしまった国の責任として、今後一切そういうことはしません、という反戦への誓いとしての意義はある。しかし、靖国神社は、宗教法人であり、かつ、遊就館などを有する国家主義的・思想的な施設でもある。逆に言えば、反戦への誓いが、命を落としてしまった方への、国の申し訳なさ、国の責任としての誓い・思いではなく、その死が、国のために捧げられたものとして、国のためにという感謝として、美しい死などとして、美化されてしまうことも一方ではあり得る。しかし、考えてみれば、死というのは、避けるべきものであるのが人間の心情。よって、生き方は評価されることはあっても、死というものは、美しい死などと美化されてはならないし、人間の死に対し、良い悪いの評価をすること自体、避けられるべきことである。死なないでいてほしい、そう思うのが人間でしょう。よって、死に対して、評価を下し、かつ、その評価が責任問題を抱える国家となれば、総理大臣自ら参拝することは、人道的観点から許されないものであると考えられる。いくら、首相が違うと説明をしても、それが宗教法人であることから、そこへ行ったということ自体、そのように捉えられてしまう。そのような捉え方が異なると言ったところで、言動の不一致を突かれてしまうことになる。どちらが正しいのか、本音は何なのか、きちんとつまびらかにできないことは、しない方がよいと考える。
A級戦犯合祀の問題もある。中には、本当にA級戦犯でいいのか、彼らに責任があると言えるのか、こういう形は正しいのか、という方も中にはおり、それは一理ある。しかし、連合国より、A級戦犯として、戦争犯罪の責任者とされた人物が国際的にいることもまた事実である。
又「『靖国で会いましょう』と言って死んでいった方がいるから行くべきであり、靖国でなければいけない」というのは、当時の思想としては、それが最上であったと思われる。しかし、現代において、時代というものを後から振り返ってみた上で、果たして本当に誇るべき施設であるのか。それとは程遠いところに位置しているのではないか。誇ることのできない施設であるなら、参拝することによっていい結果をもたらさない。それは、人道的な観点からであり、その人道を奪うものが戦争なのであり、戦争が人々に死を強いたからである。