哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

近頃聞く言葉への問い1と、災害への都市設計について

近頃、よく「復旧ではなく復興だ」という言葉をよく耳にする。
 
確かに、復旧でなく、復興させるのは当たり前の話である。
しかし、何かが足りない。復興とは「一度衰えたものが再び勢いを取り戻す事」とウィキペディアにあった。再興や復活や再起等と同じ系列の言葉である。
 
つまり、一度衰えたものが再び勢いを取り戻して、どうするのか、ということは考えられていない。災害を一つの不運な事態としか捉えられていない言葉ではないだろうか。ここで注意が必要なのは、私は、発言者が悪い、と言っているのではなく、言葉としてそれが今、求められるべきものかどうか、ということである。
 
例えば、ある人が他の人から、嫌がらせを受けたとする。これをどう見るか。見方により、その人の思考回路が変わるし、行動も変わる。その人が「いやだな」と落ち込んでしまうのか、又は「ほう。相手は、悪事を働いたな。この人、こういう欠点がある人物なのか。私の方が人間的・倫理的に上だ。まあ、この程度の人物だったのか。この人を超えるのは早いな」と、考えるのか、ということである。
 
よって、私は「復旧」でなく「復興」でなく「今後300年を考えた新規構築」ということが重要であろうと思う。これから取りかかっても、10年くらいすぐ進んでしまう。なので、50年後見据える等というのは甘い。完成して、10年くらいか。そうしたら40年しか時間がない。技術的にも、現在の最先端を駆使すれば、最低でも100年以上はしっかりとして、地震津波・台風等の災害にも強い設計は十分に可能だ。都市設計さえ、しっかり完成できれば、後は、小さい部品のようなものであるから、配置転換なども可能になる。江戸時代であっても、徳川初代頃の江戸の都市設計は、幕末まで続くことになった。現在は、それから技術も知恵も何もかも進んでいる。これからは、核シェルターではないが、安全経路やシェルター施設を整備し、災害を安全なところに誘導する仕組みが求められよう。
 
津波対策では、大規模堤防等よりも、ある程度の高さの堤防と、そして、津波の高さ(この際、50m位を想定すべき)と、それを直接かかる範囲を導き出し、入ってきた波・瓦礫(流された車等)をある程度誘導する物が重要である。コンクリートの建物(10階建て以上位で縦横の幅が大きく、地下深くへの地盤としっかりした結びつけた構造)を設け、それを送電線型のようにして、内陸へ送る。田んぼ等があるが、ある一定区域にコンクリートの建物を配置し、一時避難先とすればよいと思う。そうすれば、農業も漁業も安心してできる。今回は、低い鉄筋コンクリートの建物や、木造家屋が津波被害を受けた。木造であっても、近くに避難できる高い頑丈な建物があれば、津波ではビクともせず、安心できる。地震では、耐震・免震・制震等、いろいろ考えられている。耐震を筆頭に最新技術を取り込むことが重要だ。
 
例えば、窓ガラスは地震等で割れる。しかし、落下させない工夫はできる。すぐ下に割れたときにその破片をキャッチする設備等を付ければいいのである。このような工夫は、いくらでもある。しかし「割れにくい」というものでは、もし、割れなかったとしても、窓それ自体が変形して落下することも考えられる。よって、破片をキャッチする設備により、多重の防護が可能になるのであり、このような何重もの防護は、重要である。
 
このように、多重の防護と、最大限の多くの想定をして作り上げれば、300年くらい問題ないのである。災害は、これまでも起きてきたことなのであるから、もう、右往左往する時代は終わらねばならない。そうする為にも、最大限の想定・全ての想定、多重の防護、部分交換等ということが何よりも重要である。