哲学・法学的に「そもそも」を考えるブログ。since 2011・3・22。

2022年7月20日、ライブドアブログより、移行してきました。

ネットで話題の高岡発言騒動について

高岡氏の発言から、ネット上では賛否両論が様々に展開され、多くの有名人もこれに加わっている。韓流ドラマ、又、偏向報道を批判しているようである。
 
しかし、韓国のドラマを流すことのどこが偏向報道なのだろうか。昔に比べれば、韓国のドラマがテレビに多く流されるようになったわけであるが、それを偏向報道とすることは正しい認識ではない。フジテレビのテレビ全部が韓国ドラマでは全くないのである。偏向報道というのは、例えば、様々な学説が対立していて「この学説しかない。この意見しかない」とか「この学説を宣伝するために、あえて他の有力な学説・意見を隠す」というようなことが偏向というものであり、韓国のドラマ等が少し増えたくらいで偏向報道とするのは、安易としか言いようがないのではないだろうか。
 
又、当事者は、それぞれの立場で言っている。それぞれ、市場社会である。高岡氏の韓流批判、フジテレビの韓流ドラマ放映。前者は、韓流ドラマがどんどん進出すれば、日本の俳優が出るところが少なくなっていき、後者は、安さや、人気等を判断して、効率性を求めた放映をする。つまり、両者には、それぞれの言い分というものがあるのである。真意は、直接聞いてみないと分からないわけであるが、この両者の言い分にのって議論することに何の意味があるのだろうか。本当に、韓国のドラマを増やすことが、偏向なのだろうか。
 
「もっと日本の番組を」という声は分からないでもないが、それは、一つの意見として述べるべきなのであって、ネット上等で大きく盛り上がるべきほどのものでもないと思う。現に「韓国のドラマを今は見たい」という人もいることも事実だ。私は、冬ソナ等多くの韓国ドラマを見ておらず、又、他の国のドラマと比べ、特段に好きということもないが、私の好きなドラマの一つに「チャングムの誓い」があり、それはすごく気に入っている。一方で、日本のドラマである、午後4時台の昔の「時代劇シリーズ」や「相棒」等も好きである。あるテレビ局を韓流ドラマが少し多いからと言って、偏向だとするのは、的外れではないだろうか。
 
そして、有名人の「嫌なら見るな」という発言に「放送局は電波を独占していて新規参入ができないのだから、『嫌なら見るな』は成立しない」という論理がネット上で支持を集めているというが、私には、どちらの意見も理解できない。まず、前者について言えば、正当に一つの意見を言うことは、何も悪いことではない。嫌ならば、意見を言うか、見ないか、何もしないか、視聴者として原則この3つである。よって、嫌なら批判することは表現の自由の中で許されてしかるべきである。後者についていえば、電波独占と、嫌なら見るなの不成立は結びつかない。電波を独占していてもしていなくても、意見を言うことは権利であるから、意見を言うだけなら問題はない。例えば、ある品物を買ったとする。そして、不満があれば、その業界が独占企業がなくとも、お客様相談センター等に問い合わせる。それと同様、意見は、独占かどうか、を問うものではない。一方で、嫌なら見ないという選択肢も、あり得るわけである。よって、両者の論理は、成立しないと考えられる。
 
そもそも、一番迷惑を被っているのは、フジテレビではないだろうか。韓国のドラマを少し流していただけで、偏向と言われ、ネット上で叩かれる。又、デモも近くでやられる。安易に批判することは避けるべきである。国際社会・グローバル社会の中「政治的には悪くても、民間レベルでは良い」とみられてきたところで、民間レベルでも悪くなる・そちらの方向にもっていく、というのは、日本にとってもいいことではないし、評価されるものでもない。グローバル化の中で、保護主義に徹して何になるのか。現在のような、フジ・韓流批判をすることは、日本全体において、様々な自己規制をかけてしまうことになり、グローバル社会において、おくれをとることになりかねない。国単位なわけであるから、全てグローバルということもすべきでないわけであるが、全て保護主義というのもすべきでない。日本のものも、良いものなら外国で流す、外国のものも、良いものなら日本で流す、その国作成のものもおいておく、このバランスが重要なのである。よって、少し韓国のドラマが入ってきたから・増えてきたからと言って、大きく批判することは、いいことではないのではないだろうか。